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2012年6月27日水曜日

「小金井の新田開発」(5)

昨日(6/26)、透き通るような陽射しの午前中、地元公民館主催の市民講座「小金井の新田開発」(5回シリーズ)の第5回最終講義を聴きに行く。最後まで講義室は聴講者で満員の盛況だった。

(これまで、鷹場、街道、玉川上水、新田創設という切り口で、江戸との一体化について解説された)

今回も、東京学芸大学の大石学教授から、江戸時代に武蔵野新田に植樹された、松、栗、竹、そして桜の記録資料について、いつものように丁寧な解説と興味深いお話を聴かせていただいた。

【松】
・元禄7年(1694年)の文書に、玉川上水の両岸に植えて、橋の建材に使用したという記録がある。江戸の早い段階から植林が始まっている。その後、新田の囲いとして植えたてられることになる。

【栗】
(栗林を今も散見できる)
・将軍家へ栗を献上するため、栗林を仕立てる経緯が、「大岡越前守忠相日記」の元文2年(1737年)以降に克明に記されている。
・栗林は、小金井を中心に作られた。(下小金井新田、関野新田、梶野新田、井口新田、野崎新田、大沢新田、境新田、関前新田、上保谷新田、田無新田)
・栗林の下草を刈り取り、畑の肥料などに使われたが、管理は厳重に行なわれた。
・払い下げの栗老木を売った代金について、周辺村々と争いも生じたりした。
・献上を通じて、将軍家との一体化の意識が生まれる。栗林については行政(幕府)が支援し、地域は自分(農民)たちで管理するという関係が成立する。

(本ブログ関連:"小金井雑記"、"小金井雑記"、"春の兆し")

【竹】
・栗林とセットで育成された。これも同様に、「大岡越前守忠相日記」の元文3年(1738年)以降に記されている。

【桜】
(「小金井桜」として名をなしている)
・桜の植樹について、その時期を知る一次資料が見つかっていない。寛永年間(1624年~1644年)、寛文10年(1670年)、享保年間(1716年~1736年)、元文年間(1736年~1741年)、寛延年間(1748年~1751年)などの諸説がある。しかも、桜の苗木産地(和州吉野、常州桜川など)といわれている所にも記録がない。
・植え付けの理由に次の3説がある。
 ① 地域振興のため:飢饉など経験から政策のひとつとして。
 ② 上水の浄化のため:桜は水毒を消すという。
 ③ 玉川上水の堤が崩れぬため
・桜木の払い下げについて幕府最古の資料が明和年(1772年)にある。

小金井桜
・文政2年(1829年)の資料に、すでに「小金井桜」の名が見える。
・当初知られなかった小金井桜も、江戸後半には遠くても江戸からの花見客で賑わうようになり、泊りがけ(小金井橋ほとりの柏屋)で見物に来るようになったりもした。当時のガイドブック「小金井道しるへ」なども発行される。
・天保15年(1844年)、将軍になる前の徳川家定も観楼に来た。

(本ブログ関連:"小金井公園のさくら"、"春のぬくもりにさそわれて")

以上、江戸時代を通じて、小金井地域の村々は(首都)江戸との関係のなかで、首都圏として成長・発展した・・・という、終わりの言葉をいただいた。


(付記)
郷土の歴史を知りたいことから、ついつい身近に目が行くが、今回のような大きな切り口(鷹場、街道、玉川上水、新田創設、そして桜)を通じて時代の流れを俯瞰する意義も知った。

(本ブログ関連:"「小金井の新田開発」")

(資料)「関東甲信地方 3か月予報」(7月~9月)

6月25日、気象庁から関東甲信地方の予想される向こう3か月(7月~9月)の天候見通しが次のように発表された。
・7月 前半は、平年と同様に曇りや雨の日が多いでしょう。後半は、平年と同様に晴れの日が多い見込みです。
・8月 平年と同様に晴れの日が多いでしょう。
・9月 天気は数日の周期で変わり、平年と同様に曇りや雨の日が多いでしょう。

<上記の解説資料より>
海面水温の予想に不確定性はあるものの、大気全体が暖められているという傾向は採用する。このことから、関東甲信地方は、3か月平均気温はやや高温傾向とした。東日本への太平洋高気圧の張り出しは概ね平年程度と予想されるため、3か月降水量は平年並とした。