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2013年12月31日火曜日

2013年にさようなら

さて今年もあと数時間でおしまいだ。あっという間の1年だった。

こんな年の暮れ方も珍しい・・・惜しむ間もなく、ざるから漏れるように時が過ぎた。

ここで1曲、イ・ソンヒの「惜別の情(석별의 정)」、つまり「蛍の光」を聴きたいたいところだが、残念ながら単独で2013年の最後を飾るに相応しいYoutube映像が見当たらない。・・・昨年版のものはあるのだが。

そんなわけで、軽快にポール・モーリヤ(Paul Mauriat)編曲の「蛍の光(AULD LANG SYNE)」を聴きながら今年を仕舞いましょう。(Youtubeに登録のufrp136に感謝)

来年もよい年でありますように。

KBS WORLD「国楽の世界へ」 クリスマス

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/25)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第37回として、「クリスマス(크리스마스)」にまつわる話を紹介した。

まず、イエスの「5つのパンと2匹の魚」の奇跡の紹介から次のように始まった。(聖書に基づき改編)
・イエスを慕い従った人々に、夕暮れに与える食べ物が全くなく困った時、弟子はわずかに残ったパンを5つと魚を2匹差し出した。イエスはこれを裂いて5千を超える人々に与え満腹にした。このイエスの奇跡は、小さくとも、自ら所有するものを人々に喜んで差し出す行為に、尊い価値を知らせた。独占する心を、喜んで分け与える心に変えること、それがイエスの奇跡だった。

▼ パンソリ「イエス伝」中の「イエスが馬小屋で誕生する題目」を聴く。こんな・・・布教の巧みさを考える。

次に、韓国のキリスト教の広まりについて次のように解説された。
・1549年、ザビエルが日本にカトリックを布教した。文禄・慶長の役(1592年~1598年)の際、西洋のセスペデス(Sespedes)神父が、日本から朝鮮に入った記録があるが、戦乱中の宣教活動は限定的だった。1631年、中国へ朝貢の使節を通じて、カトリックが本格的に伝来した。カトリックはまず学問として西学(서학)の名で広まる。当初、友好的だったが、その後百年余りの間、迫害を受け数多くの殉教者も出したが、現在数多い信者がイエスの生き方とその教えに感化されることとなった。

▼ 「ホワイトクリスマス」を聴く。伽耶琴(カヤグム)による演奏・・・国楽から洋楽へ、いいかもしれない。

最後に、シルクロードを経由したキリスト教の話が次にように説明された。
・シルクロードの繁栄を狙っていた唐代の首都、長安には世界から人々が訪れ賑わっていた。その中で、景教というキリスト教一派が仏教に負けずに栄えていた。景教はトルコの宣教師ネストリウスから広まったもので、シルクロードを通じて中国に伝わったもので、ユーラシア大陸を行き来した躍動的な動きが感じられる。

▼ 「あなたは愛されるために生まれてきた人(당신은 사랑받기 위해 태어난 사람)」を聴く。二弦の擦弦楽器、奚琴(해금:ヘグム)による演奏・・・美しい調べする、今様である。

2013年12月30日月曜日

丸いこと

内部で回転運動をすると不思議なことに安定感が増す。といってもジャイロ効果のことだが、回転の進行は同じでも、直径の両端から向かいあって見ると、反対方向に走っているように見える。一見、互いに運動を打ち消すようで、そのことが安定をもたらすといっても・・・。

その安定感には、大勢を決める重力が関わるだろうと思っても関係ない。宇宙船のなかで実験してみせてくれる映像がYoutubeにある。どんな道具を使うのかと思ったら、なんとCDプレイヤーのスイッチを入れてCDディスクを回転させて、ジャイロ効果を見せるのだ・・・あら不思議。

(Youtubeに登録のPlasma Benに感謝)

丸い回転運動は互いに中心を引っ張り合うように、反対に走ればよい。ものごといずれに片寄っても按配よくない。回転エネルギーさえ保てば円運動はうまくいく。

そういえば、マンホールの蓋が円板なのは、それ以外の形状では、傾き具合で蓋が穴に落ちてしまう危険性があるからだ。円板の蓋なら、マンホールの穴に落ちない・・・という、まっとうな仕組みになっている。円板は回転してもじっとしても安定する。

ところが、丸い球体は転がすとどこへ進むのか分からない・・・野球、ゴルフ、ボーリング、はてはサッカーなどスポーツや娯楽に最適だ。丸が3次元に変わると、いろいろな要素が加わって、コントロールがむつかしくなる。それもいいものだ。

よく人は「丸くなれ」というが、2次元を選ぶか、3次元を選ぶか・・・私は、3次元球体も捨てがたい。その場合、でんと座っているために人は「角張れ」とでもいうのだろうか。

2013年12月29日日曜日

チョー・ヨンピルの「Hello」

以前、NHKのテレビ番組で、チョー・ヨンピル(趙容弼、조용필、1950年3月21日~)が充電のため、発声を磨くために山深くこもって、パンソリを参考に血の滲む修練をしたという伝説を聞かされて以来、一層トロット、国楽寄りのイメージを強くしてしまった。実は彼が、ロックを含めて幅広いカテゴリーを持っていることから、韓国の人気歌手のトップを走るのはいうまでもないことに気付く。

11月7日に東京国際フォーラムで、「歌王」チョー・ヨンピルの15年振りの日本公演があったけれど、行けずに残念なことをした。

ところで、イ・ソンヒのコンサートに招かれた、彼女の愛弟子のイ・スンギが、チョー・ヨンピルの「旅に出よう(여행을 떠나요)」を歌ったのを見たことがある。若々しさに溢れた歌は、まさに若い歌手に引き継がれてこそ輝きが増すと思った。

今なお、チョー・ヨンピルの活力は衰えることなく、むしろその正統な底力を発揮するように新しいアルバムをリリースして、存在の堅固さを証明したようだ。最新のアルバム19集「Hello」(2013年)の「Hello」も、ロックの響きに、若さだけでなく懐かしさも同居する。多分、それがヒットした最大の理由だろうけれど。

Youtubeで「Hello」を聴いてみよう。

2013年12月28日土曜日

今年最初の火の用心

冬に入って、寒さはますます厳しい。夜も深まった9時過ぎに、今年最初の火の用心の拍子木を打つ音が家の前を通り過ぎた。「火の用心」の掛け声は聞こえなかったが、拍子木の乾いたカン、カン(カチ、カチ)という音が聞こえてくる。

昨年も、12月26日の夜に、その年最初の火の用心の音を聞いている。一体、どんな方々が廻っているのだろうか。感謝の気持ちがして、寒い冬の夜もなんだか暖かくなる。

(本ブログ関連:”火の用心”)

町内会で火の用心の行事をしている事例を、Youtubeに登録されている映像で見ることができる・・・本来、昔から伝わる風習であるが、わが町ではここ数年のことだ。

(Youtubeに登録のchiikifureaiに感謝)

(追記)
そういえば、今日は今年最後のごみ収集日で、出し忘れのないよう用意した。けれど少量で、まあいいかと出しそこなった別種の分別ごみが残っている・・・一緒に年越しだ。

2013年12月27日金曜日

2013:7080世代が最も好きな曲

朝鮮日報(chosun.com)は、”1970年代と80年代に20代を過ごした世代”つまり中高年世代に人気のある曲について、記事「チョー・ヨンピル『その冬の喫茶店』、7080世代が挙げた最高人気歌謡」(12/27、パク・ジョングォン記者)で、次のように紹介した。(キム・キョウル記者)
ちなみに、イ・ソンヒは彼女のデビュー曲でもある「Jへ」で、歌謡部門のチョー・ヨンピルに次いで2位をキープしている。

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・7080世代が最も好む曲であるABBAの「ダンシング・クイーン(Dancing Queen)」(1976年)とチョー・ヨンピルの「その冬の喫茶店(그 겨울의 찻집)」(1985年)が選ばれた。

・KBSハッピーFM(106.1MHz)「イム・ペクチョンのラジオ7080」は、3周年を迎えて、特集「7080世代が好むポップ、歌謡ベスト100」を選定して、2014年1月1日放送する。

・「イム・ベクチョンのラジオ7080」は、2013年の1年の間の聴取者がリクエストした曲と、12月中に7080のポップ・歌謡を推薦された、ポップ50曲、歌謡50曲を選定した。調査の結果、7080世代が好むポップ1位にはアバ(ABBA)の「ダンシング クイーン」が選ばれた。歌謡1位にはチョー・ヨンピルの「その冬の喫茶店」が挙げられた。

・7080世代が好むポップ順位では、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」が2位、ビートルズの「イエスタディ」が3位、ライチャス・ブラザーズの「アンチェインド・メロディ(Unchained Melody)」が4位、アーハの「テークオンミー(Take On Me)」が5位をそれぞれ占めた。歌謡順位ではイ・ソンヒの「Jへ」が2位、イヨン(이용)の「忘れられた季節(잊혀진 계절)」が3位、ナミ(나미)の「悲しい縁(슬픈 인연)」が4位、チョン・ヨンノク(전영록)の「折鶴(종이학)」が5位にそれぞれランクされた。

・聴取者が直接挙げた7080名曲は「イム・ベクチョンのラジオ7080」で、3周年特集として2014年1月1日から5日まで、昼12時10分から2時まで放送される。また、歌手イ・チヒョン(이치현)、イヨン、キム・モッキョン(김목경)、五本指のイ・ドゥホン(다섯 손가락의 이두헌)、ナム・グンオクプン(남궁옥분)などがスタジオに直接出演してギターライブをプレゼントする。
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2013年12月26日木曜日

お御籤

神社にお参りすれば、境内の社務所に「お御籤」(おみくじ)が置かれているものだ。神殿に向かってした(家族や他者も含めて幅広い)願いが成就するかどうかは別にして、個人的な運勢、吉凶を占う意味でお御籤を求めることになる。
わたしは、占いを信じないからではなく、ちょっと先の運命が見えてしまうことに躊躇して、今までにお御籤を手にしたことがない・・・少々臆病なのかもしれない。

神社とは別に、子どもの頃に、デパートの屋上などで小鳥(ヤマガラ)がお御籤を引く芸があって、自分から親に頼んでお御籤を引いてもらうこともなく、観客の大人たちの隙間から覗くだけだった。それに、昔の喫茶店にあったものだが、テーブルの上に灰皿代わりのお御籤器があって、その安直さ加減に、いったい誰が求めるのだろうと不思議に思ったものだ。

中華菓子に、お御籤を埋め込んだものがある。フォーチューンクッキーという。これは以前食べたことがあるが、菓子の中から出てきたものは英語綴りのもので、いかにも輸出菓子らしく拍子抜けした記憶がある。
この菓子の名が、AKB48の歌の題名に使われている。「恋するフォーチューンクッキー」(作詞:秋元康、作曲:伊藤心太郎、編曲:武藤星児、2013年8月21日、AKB48メジャー32作目シングル)だ。それにしても、歌詞中の英語風は、「Yeah!、カモン ベイビー、Hey!、リアクション、オーベイビー」などと古色して・・・。「恋するフォーチューンクッキー!」と繰り返されるたびにどこか懐かしい、戦略的な旋律が耳に残る。

そんなわけで、実は今日初めてAKB48の「恋するフォーチューンクッキー」をYoutubeでフルで聴いた。おじさんたちにも十分聞き入れるようだ。

2013年12月25日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 冬至

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/18)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第36回として、「冬至(동지)」にまつわる話を紹介した。

まず、冬至を題材にした黄真伊(ファンジニ、황진이)の作品の紹介から次のように始まった。
・最近、季節の変化が極端になった。韓国では、春と秋が短く、暑い夏、極寒の冬がすぐにやってくる。今年も晩秋すでに氷点下の気温となり寒さも厳しい。今月22日(日)は冬至で、一年の最も夜が長い日だ。
朝鮮時代の時調(시조)に、冬至を題材とした、妓生(기생)の黄真伊(1506年?~1567年?)の感性豊かな作品「冬月漫長夜」がある。
「冬至の長い夜を少し切り取って、布団の下にしまっておいて、恋しいあの方がいらっしゃる夜に広げたいものだ。(截取冬之夜半強 春風被裡屈幡倉 有燈無月郎來夕 曲曲鋪舒寸寸長)

平時調「冬至月(동짓달)」を聴く。楽に合わせて長々と歌う、詩吟のソフトなイメージで、管の音に似て・・・。

次に、冬至と小豆粥の関係について次のように説明された。
・小豆は、その赤い色が幽霊を追払うと考えられ、良悪につけて、小豆粥、あんこ餅などを作り厄除けした。
・冬至の小豆粥は、小豆をつぶした汁に米を入れて粥のように茹で、そこに餅米を丸めた団子の白玉(セアルシム、새알심)を入れる。冬至に、白玉を歳の数だけ食べる。小豆粥ができると、まず霊廟(사당)に供えて、冬至の祭祀を行なう。次に各部屋、甕、納屋などに一杯ずつ置き、粥が冷めたら家族でこれを頂く。また人々の出入りする玄関やドア近くで小豆粥を撒いて厄除けする風習がある。
・冬至は、陽暦の12月22日、陰暦では毎年その日が変わるため、陰暦11月初旬の場合は子冬至(애동지)、中旬の場合は中冬至(중동지)、下旬の場合は遅冬至(늦동지)と呼ぶ。子冬至に小豆粥を食べると子どもに害があるとされ、代わりにあんこ餅を食べる。中冬至では小豆粥、あんこ餅のどちらを食べても良く、遅冬至では小豆粥を必ず食べなくてはならないとされた。
・夜が最も長い冬至を過ぎれば、これから日が長くなる。

▼ パンソリ「水宮歌(수궁가)」から「果課天辺(고고천변)」を聴く。跳ねるようにリズミカルだが・・・

最後に、冬至に対する古来の考え方について次のように解説された。
・冬至は、古代西洋では、太陽が死から復活する日と考えられ、クリスマスもこうした考え方と関連があるとも言われる。さらに中国では、冬至を新年の初めと捉え、その風習が現在に伝わり、「小さな正月」とも呼ぶ。
・冬至の日が、寒いほど次の年は豊作になるという信仰から、寒く雪が降り積もる天気が好ましいとされる。冬至は、これから厳しくなる寒さに備えて、隣り同士が支えあう期間ともいえる。昔の人々にとって、寒くて厳しい季節にも、未来へ希望をもって過ごす考え方があったのだろう。

▼ 「密陽アリラン(밀양아리랑)」を聴く。ジャズ風味を効かせた演奏だが、歌詞があれば最後に冬至、師走が・・・。

2013年12月24日火曜日

イ・ソンヒの「ラスト・クリスマス」

先日のテレビ番組の中で、世代別にクリスマスに聞きたい曲アンケートで、山下達郎の「クリスマス・イブ」(1983年)は当然として、40代以上の世代は、ワムの「ラスト・クリスマス(Last Christmas)」(1984年)を、若い世代は、マライア・キャリーの「恋人たちのクリスマス(All I Want for Christmas Is You)」(1994年)を上位に選んだ・・・ような(記憶違いがあるかもしれないが)気がする。

イ・ソンヒの特別アルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」(1988年)に所収の「ラスト・クリスマス」は、ワムの「ラスト・クリスマス」をカバーしたものだ。ワムの場合、去年の失恋のクリスマスから今年、そして来年へと想いを語るが、イ・ソンヒの場合、「ラスト・クリスマス」は一つの記号として、まるで今を祝うよう・・・賛歌に通じる。当時、テレビから流れてきたワムの歌は、ハレの音楽記号だったのだ。

(本ブログ関連:”冬の日のものがたり”)

 
(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

2013年12月23日月曜日

イ・ソンヒのエピソード

以下は、RigVeda Wiki(β)のイ・ソンヒの項に掲載されたエピソードであるが、イ・ソンヒの自伝などで照合しない限り、記述者の主観も混在している可能性がある。(抜粋)

・1991年、民主自由党(民自党)*所属で、ソウル市議会市会議員に当選して活動したりした。しかし、1年3ヶ月目に所属党に失望感を感じたすえ、民自党を離党して民主党**に入党し、野党議員で最後まで活動し、その後、政治とは距離を置いている。後日、「膝打ち道士」***での発言には「ボランティア」に関心があって出馬したことで、歳費も受けなかったという。

(*) 民主自由党: 慶尚道を支持基盤とする保守系政党
(**) 民主党: 全羅道を支持基盤とする進歩系政党
(***) 「膝打ち道士」: ゲストを迎えて進める談笑番組

・イ・ソンヒの父は、仏教音楽の梵唄*の奏者であり、母は父の弟子であった。寺で居住するようにしたので、幼い時のイ・ソンヒは、父が僧侶という誤解と、寺で生きるという冷やかしをたくさん受けねばならなかった。本来この世界で、師匠と弟子の間に異性関係が続くのはダブー視される暗黙的ルールがあったし、婚姻届をするまで迂余曲折が多かったという。それでイ・ソンヒは、幼い時期の両親の職業や名前を何となくおおっぴらに挙げるできなかったし、親戚も対外的に分からない振りをして生きなければならなかったという。このような複雑な家庭事情で、かなり不安定な青少年期を送ったようだ。
・インターネットがなかった時期、口コミでデマが広がった両親世代は、イ・ソンヒの良くない噂をほとんど聞いて知っている方だ。主に家庭の事情で派生したデマだったという。

(*) 梵唄: 仏教音楽の「ぼんばい」(범패)

・90年代半ばに、ミュージックビデオ*撮影中、金属でできた電灯が傾き倒れて(彼女の)頭を直撃したせいで、途方もなく大きな手術をして、全治6週以上の大事故にあった。このために、活動復帰もキャンセルされ、本人にとって最大の暗黒史だ。これを、演芸関連番組で、イ・ソンヒが電灯に頭があたる場面をそのまま放送して、とんでもない非難を聞くことにさえなった。

(*) 本ブログ関連:”イ・ソンヒの「見知らぬ海辺で」”

90年代後半には、従軍慰安婦の老女を称える歌を歌って、歌の題名*にチョセンピ(조센삐:朝鮮女性を卑下する名称)が入ったと、どんな老人となろうと慰安婦の老女を卑下すると言って告訴されたりもした。

(*) 題名:1992年、すなわち90年代初めに、8集収録の「あるおばあちゃんの極楽(어느 할머니의 극락)」があるが・・・朝鮮女(조센삐)は削除されている。(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

以下、ネット情報(「再麦笛雑談」)によれば、
・・・「チョセンピ」の一部の音から悪寒を連想させるという。
・・・告訴の経緯について、告訴を受けた側が納得と合点のいかぬまま対応を急いだようだ。

2013年12月22日日曜日

冬至2013、小来川鉱山、引田鉱山、そして初雪

冬至の今日、鉱物採集に行った。午前中は、栃木県日光市小来川(おころがわ)にある、銅鉱山の小来川鉱山にラング石など二次鉱物を探した。過去、2006年、2007年、2011年に訪問している。
午後は、栃木県鹿沼市引田にある、引田鉱山に日本式双晶(水晶)を妄想して採集に行った。こちらは、初めての訪問である。

冬至の早朝、寒中に始発電車を待つ。まだ暗い。途中、乗り換えた電車は車庫から出たばかりだろうか、冷え切ったままだ。待ち合わせ駅で、お世話になるH氏の車に乗って現地に向かう。この頃になると、空に明るさが増してきた。

【 小来川鉱山 】
前回の採集で体力の衰えが実証されて不安だった。しかし、麓からゆっくり沢伝いに採集しながら登ったおかげで、気ぜわしさもなくて済んだ。到達地は前回同様、トロッコ2台が転がっている場所だ。到達地に至るまでに、私の今年の初雪を経験した。収穫は到達地よりも、沢の方が多かった。
帰路は、沢の斜面にある道を下った。おかげで楽ちんだった・・・前回もこの道を下っていたら、小学生ハンターの背を追うこともなかったろうに。
成果は次の通り。
- 孔雀石、ブロシャン銅鉱、黄銅鉱、黄鉄鉱、白鉄鉱+閃亜鉛鉱、含銅アロフェン、ラング石?、銅藍?

(本ブログ関連:”小来川鉱山・久良沢鉱山、初雪も”)


【 引田鉱山 】
引田鉱山近くの路上に車を停めて昼食をとる。鉱山は意外な場所にあり、裏山であり裏庭といった景観だ。日本式双晶を期待したが、甘くはなかった。一面に枯葉が敷きつまっていて、貪欲さに乏しいため、一部顔を出したものだけ採集した。
成果は次の通り。
- 白鉄鉱+黄鉄鉱、水晶+黄鉄鉱、赤鉄鉱or赤銅鉱


地元駅に着いたときには既に暗くなっていた。冬至は昼が短い。

2013年12月21日土曜日

なぜか深夜に地震がつづく

今日の日付に変わったばかりの深夜に、テレビで「タモリ倶楽部」(今回のテーマは、雑草の不条理なネーミングについての話など)を視聴して、しばらくしてのこと・・・地震が来たのだ。気象庁の発表では、当地は震度2だが、体感は短時間だったとはいえ、震度2強≒震度3近く感じた。

気象庁の地震情報は次の通り。
「平成25年12月21日01時15分 気象庁発表: 21日01時10分頃地震がありました。震源地は茨城県南部(北緯36.0度、東経140.2度)で、震源の深さは約70km、地震の規模(マグニチュード)は5.3と推定されます。」

最近、地震が週末・日曜の日付に変わった深夜に、「茨城県南部」または「千葉県北西部」を震源として襲ってくる。今回の震源地は、またしても「茨城県南部」なのだ・・・気になってしょうがない。

(付記)
先日(12/19)、政府の中央防災災会議が「首都直下地震対策検討ワーキンググループ最終報告の概要」を発表して、「区部直下のM7クラスの地震 【都心南部直下地震(Mw7.3)】 (30年間に70%の確率で発生)」による被害想定したばかり・・・。

2013年12月20日金曜日

東京に初雪が降ったそうだ

今日は、晴れ間もあれば、しとしと雨もあり、おまけに(東京都心の大手町では)初雪まで、一日せわしかった。といっても、初雪は、ちょびっと降っただけで、当地には気配もなかったけれど。

今日降ったものに、「ひょう(雹)」、「あられ(霰)」、「みぞれ(霙)」もあったようだ。

TBS Newsの報道「全国的に大気不安定、東京では初雪・ひょうも」(12/20)は次のように報じている。(抜粋)
「20日の昼過ぎに東京では、ひょうが降りました。さらに、都心では平年よりも早い初雪も観測しました。・・・」

Wikipediaの説明
・「雹(ひょう)とは、積乱雲から降る直径5mm以上の氷の粒のこと。直径5mm未満のものは霰(あられ)と呼ばれ区別される。」・・・つまり、「ひょう」と「あられ」は氷であって、雪ではない。
・「霙(みぞれ)とは、雨と雪が混ざって降る気象現象である。・・・雨が雪に変わるときや、その逆のときによく見られる。」・・・というわけで、「みぞれ」は雪の前兆でもあり、その中に(雪の)結晶があれば、雪と判定できる。

都心で積雪が観測されたようではなく、今日の「みぞれ」に、どうやら雪の結晶が存在して「初雪」と認定されたようだ。

(追記)
東京都心の観測場所は、今年まで、気象庁舎のある大手町だ。来年の「2014年からは北の丸公園での観測データが、『東京』の気象記録として発表されることになる。」(日テレニュース24、「『東京』の気象観測地点、50年ぶり移転へ」(12/20)抜粋)とのこと。

2013年12月19日木曜日

2013年を輝かせた歌手

韓国ギャラップは、恒例の、その年に輝いた歌手人気度調査である「2013年今年を輝かせた歌手と歌謡」(12/19)の結果を次のように発表した。第1位に歌王チョー・ヨンピルの新たなチャレンジによる復帰が最大の話題だ。そして相変わらず強さを誇るトロットクイーンのチャン・ユンジョンは第3位と上位を堅持している。

ところで、世代別に見ると30代を汽水にして老若の傾向が見られる。つまり40代からは、おじさん・おばさんの世界である・・・よ。それに、10代に人気の歌手の名はほぼ知らない。

(本ブログ関連:ギャラップ調査、”2009年”、”2010年”、”2011年”、”2012年”)


▶2013年を輝かせた歌手-最近7年間の推移(3人まで自由回答、単位:%)

2008年 2009年 2010年 2011年 2012年 2013年
1位

2


3


4


5
WonderGirls
(22.2)
BIGBANG
(21.2)

チャン・ユンジョン
(9.9)

少女時代
(7.8)
イ・ヒョリ
(6.5)
少女時代
(29.8)
BIGBANG
(21.1)
2PM
(12.5)
WonderGirls
(10.4)

チャン・ユンジョン
(9.6)
少女時代
(31.5)
2PM
(12.5)

チャン・ユンジョン
(11.6)
テジナ
(8.4)
KARA
(7.7)
少女時代
(26.1)
BIGBANG
(8.2)

チャン・ユンジョン
(6.9)
キム・ボムス
(6.3)

IU
(6.0)
サイ
(24.4)

少女時代
(19.8)
BIGBANG
(9.5)
IU
(6.9)

チャン・ユンジョン
(6.6)
チョー・ヨンピル
(17.6)
サイ
(11.7)
チャン・ユンジョン
(8.8)
EXO
(8.4)
少女時代
(8.3)


▶2013年を輝かせた歌手-年齢別(上位5位、3人まで自由回答、単位:%)

10 20 30 40 50代
1

2位

3位

4位

5位
EXO
(27.4)
Crayon POP
(12.3)

GD/
BIGBANG
(11.9)
A pink
Girl's Day
BEAST
(11.4)
SISTER
(12.5)
EXO
(11.5)

IU
(11.1)
GD/
BIGBANG
(9.9)

少女時代
(9.7)
チョー・ヨンピル
(14.7)

サイ
(12.9)

少女時代
(12.0)
SISTER
(10.6)

IU
(10.0)
チョー・ヨンピル
(29.6)

サイ
(17.4)

チャン・ユンジョン
(12.4)

イ・スンチョル
(10.6)

IU
(7.9)
チョー・ヨンピル
(31.2)

チャン・ユンジョン
(20.0)

サイ
(12.9)
テジナ
(9.1)
イ・スンチョル
(5.9)

【調査の概要】
・調査期間: 2013年(1次)7月18日~8月5日、(2次)9月25日~10月15日、 (3次)11月1~18日
・サンプリング:ステップ2段層化集落地域無作為抽出-標本ポイント内の性/年齢別の割り当て抽出
    →(参考) 韓国ギャラップ・オムニバス調査の標本設計報告書
・応答方式: 面接調査員インタビュー
・調査対象: 全 ​​国(済州を除く)満13歳以上の男女4,263人
・標本誤差: ±1.5%ポイント(95%信頼水準)
・依頼先: 韓国ギャラップ独自の調査

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「8.夜の舞台時代の警備員の話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第8回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、デビュー初期の待遇や環境の変化への戸惑いと驚き、いわゆる夜営業(ステージのある店)に出演する際に直面したそして軋轢をガードした警備員の存在などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[8] 夜の舞台時代の警備員の話
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1985年2月、私は初めて第一アルバムを世の中に出した。1集に収録されたすべての曲は、全てソン・ジュホ氏が作曲した歌だ。高校時代、チャン・ウクチョ音楽室での出会いが縁だった。

<少女の祈り(소녀와 기도)>と<女心(여심)>をそれぞれ(レコード)裏表面のタイトル曲として載せた1集アルバムはあきれるほどとても売れた。ソウルでは「あ! 昔よ(아! 옛날이여)」と「葛藤(갈등)」が人気であり、地方では「また咲く愛のために(다시 필 사랑위해)」、「光の子ら(빛의 자손들)」、「愛の約束(사랑의 약속)」、「少女の祈り(소녀의 기도)」などが強い勢いを見せた。(レコード)盤一つで、何と六曲もヒットしたのだ。ファンは、レコードの入手が難しいと不平を言うほどであった。

ただ一つ、今でも予測するのが難しいのは、特定の歌に対するファンの反応だ。作曲家や歌手が(レコードの)A、B面の頭の曲なら明らかに最も自信がある歌であるのに間違いないはずなのに、ファンはほとんど期待もしなかった歌をもっと好きだったりする。6集アルバム中の「思い出のページをめくれば(추억의 책장을 넘기면)」もやはりタイトル曲ではないのだから。

とにかく、1集の大ヒットは、私を「マイカー族」の隊列に立たせた。今でも忘れることはできない、私の一番の車、(現代製の)白色のポニー2。

私は、レコードがよく売れて、自家用車を運転する厳然とした歌手だった。歌が下手な歌手は、もう歌手ではない。私はデビュー直後から、そうそうたる先輩歌手を追いかけて行くのではなく、「正面対決」を繰り広げて、私の道を歩んできたと思う。

歌唱力を評価する基準は、他の人の歌をどれくらい上手く歌うかにかかっていると私は信じる

私は、デビュー当初や今も、放送に出演して他の歌手の曲をたくさん歌う方だ。私の歌があまり多くなかった新人時代には、70年代のフォークソングと先輩歌手の歌をたくさん歌った。チョー・ヨンピル、キム・スヒ、ユン・シネ、キム・ヨンジャさんなど当時最高歌手と舞台に一緒に立って、内心競争的に相手の方の歌を熱唱したその時の経験が、今日の私に多いに役に立ったと思う。

私も自分の声が高いと感じている。キー(Key)がハイ(high)なため、私は歌わねばならない相手歌手の歌が低音を中心にしている場合には、ちょっと苦労しなければならなかった。寝る間を惜しんで、歌詞を諳んじて、私の声をその歌手の声に合わせて・・・

先に話したように、デビュー初め、私はしばらく夜営業の所(キャバレー・酒場など)に出演した時期があった。ところで、行く所ごとに、どこでどのように聞いてきたのか、青少年のファンたちまで未成年者の立入禁止場所である酒場の中に入ってこようと出入口前でもめごとをしたりした。また、客は、客なのに「いくら芸能人でも『ちっちゃな』学生がこのように出てはいけないよ」と、隙さえあれば意見しようとした。

「いや、私も法的には完全な成人なのに、なんでこのように・・・」 しかし、何となく「突っ張って」自然に夜営業の所には往来を控えるようになった。

(この)夜営業の出演と関連して、ほとんど伝説的な話で、チェ・ヒジュン先輩が酔客から白のスーツに酒とおつまみの洗礼を受けた時、気まずくなった雰囲気を淡々として余有ある態度で、それ以上悪化させなかったという話がある。

反面、ある女性歌手は、意地悪な客にあらゆる悪口を浴びせまくることによって、禍を自ら招いたという話も聞いた。

私は、幸い酒に酔った客に辱めに会ったことが一度もなかった。恐らく、放送などを通して映った幼いイメージのおかげでないかと思う。その上、私は舞台の上に釘付けされたように、本来の場所で歌を歌うスタイルでない。客席と客席の間、テーブルとテーブルの間の通路をうんと歩き回る方だった。できるだけ多くの人々と握手もしながら・・・

荒いことで有名な永登浦地域の夜営業で2ヶ月間歌を歌う時、私はウェイターから感謝の言葉をしばしば聞いた。普段あまり目立たないが、円形舞台の周囲にはウェイターの「きらりと光る」視線がある。舞台上の芸能人が、警備員の役割まで兼ねているのだ。

ところが、私が出演してからは、荒い客よりネクタイ姿の会社員が多くなって仕事をするのがはるかに楽というのだった。あたかも「剣道館」や(学級委員の中から選ばれる)「善導部長」になったように、得意になった瞬間だった。

そのようなある日、舞台下に降りて握手するのを楽しむどころか、絶対に夜営業には途絶する事件が起きた。

ある夜の舞台だったか、「あ、昔よ」を歌っている時だった。

その日に限って、客席には荒っぽい男が多かった。突然どこかで何かが壊れる音が聞こえたのに続き、舞台の下が騒がしかった。 私を「警備」していた方々と、頭を剃ってズボンの胴には刃物までさげた、ある輩と喧嘩が起こったのだ。

事件の発端はこうだ。

歌手が舞台上で歌っていたら、握手するつもりで舞台の真ん前に出てくる客がいる。数ある中には、握手すると歌手を舞台の下に引っ張るやっかいな人もいる。それで、舞台周りには客を「装った」歌手のマネジャーや警備員が常に緊張の中で待機している場合が多い。

その日も、舞台上にぴたっと寄り添い座って「万が一の事態」に備えていた私の警備員(私が属したプロダクションの職員)を、その不良たちが、熱心な「イ・ソンヒ ファン」と誤認して、不正をはたらいたのだ。私に会わせてくれといって.。

歌っている私に向かって、彼らは「ソンヒよ、後で・・・」、何とかしてと、とても近い仲であるかのようにほらを吹いたし、これに対していきり立った私の「保護者」たちと言い争いを繰り広げることになったのだ。

今日、突然に「警備員」という言葉が登場するようになったのは、記憶も生々しい85年3月20日の脅迫事件がその根元になっている。

当時、私は一日平均7百~8百通ずつ押し寄せるファンレターで、集配人のおじさんの顔色をうかがわなければならない程大変な苦労をしていた。今でも一日に4百通余りの手紙を受けているが、返事はほとんどできない。デビュー初めから今まで、着実に便り伝える方々だけでも1千人近くなる。顔は分からないが名前と字体だけ見てもうれしい方々だ。

話が横道にそれたが、とにかくその頃30代初めぐらいに見える険しい若者3人が訪ねてきた。熱狂ファンなのを自任しながら。

なんだかんだとつまらぬことの末に、結論は「おれたちの店にも出演しないで、他の夜舞台をあちこち出ては『面白く』ないことと思え」と言うのだった。

実際には、一箇所と2ヶ月出演契約を結んだら、1年契約したのと変わらない。放送出演とか練習とかで言って見ると、出演キャンセルすることが多く、約束は約束だから2ヶ月間60回の舞台に立つという契約を守ろうとするなら、およそ1年ほどかかるからだ。

私を連れて行こうとしていた店は、いつのまにか「お連れ」参りし始めたし、当時では破格的な1ヶ月に7百万ウォンという最高水準の待遇を提示する所もあった。

怖いし、また昼間と夜を変えて生きるということに体質的に拒否感もあって、ずっと断ったところ「鼻っぱしらを高くふるまうな。二度と歌を歌えないようにする」という威嚇を受けたりもした。

だが、「お茶を一杯一緒に飲む機会をくれ。そうでなければ拉致する」と見えすいた脅しをする子どもっぽい少年の電話声には「ふざけているのね」といいながら、たいしたことないと思ったりもした。

しかし、私は彼らの顔が分からないが、私の一挙手一投足は完全に公開されたも同然だったので、結局、私の乗用車には警備員2人が同乗することになったのだ。
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2013年12月18日水曜日

氷雨、雪?

今日は一日中冷える。すっかり冬の厳しさだ。夕方、外を見れば、夜道は氷雨に濡れて街灯に照りかえっている。

朝からテレビの天気予報は、今夕、東京地方に初雪が降るだろうと報じたが、19:30現在、雪の気配はない。しかし、廊下や床板の冷えは厳しい。このまま続くと、まさに厳冬だ。

この寒さに、冬真っ只中を感じるが、東北、北海道の積雪の冬景色とは比べようもない。春遠からじというほど冬でもない。

ところで、モンゴロイドがシベリア、ベーリング海峡、アラスカを経由してアメリカ大陸に移動したとき、シベリヤ少数民族イヌイットの祖先は、なぜあの雪原に残ったのだろうか。人類の大移動に取り残されたのか、追いやられたのか、あるいは自らの意志で選択したのだろうか。

2013年12月17日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 逐鬼

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/11)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第35回として、”鬼払い”の「逐鬼(축귀)」にまつわる話を紹介した。

まず、(異人、あるいは巫俗信仰とつながるという)処容(처용)の説話から次のように始まった。
新羅(356年~935年)の憲康王(헌강왕)は、879年のある日、蔚山の開雲浦(울산 개운포)を訪れた。突然、空に雲が陰り、深い霧がたちこめ、天地は真っ暗になった。天の様を伺った臣下が「東海の竜王(용왕)の仕業ですので、何か早めに手を打たなければなりません。」と進言した。王は竜のため寺を立てるよう命じた。
・王の恩恵に感謝した竜王は、7人の息子を連れて現れ、王の功績を称える舞を舞った。7人の息子の一人、処容は、憲康王に従い官職に就く。そして美しい妻も娶り、夜には通りで歌や踊りを楽しんだ。ある日、家に帰ったところ、伝染病の疫神(역신)が妻と寝ているのを目撃した。疫神を懲らしめるのではなく、状況を歌詞に込めて歌い踊った。疫神は、処容の大胆さと寛大さに驚き、跪き侘びて、今後現れぬと誓った。以来、人々は鬼払いの神として処容の顔の絵を門に貼った。

▼「処容歌(처용가)」を聴く。明るい月夜に遊ぶ・・・鄕歌(향가)の流れを汲むという・・・現代曲風、今様である。

・宮中にも処容の噂は広がり、祝い事や大晦日などに彼の舞を舞って様々な鬼払いをしたという。

次に、巫俗信仰などに見る鬼払いについて次のように説明があった。
・昔の人々は、出来事は全て神や鬼と関連すると考えた。良いことは先祖の助けと感謝し、悪いことは鬼の仕業と考えた。自然に対する理解は別にして、道理に逆らうことなく、自然と共に生きる慎み深さが感じられる。鬼払いは、一年の終わりや、災いがあったときなどに行なった。命に関わる重要なときは(巫俗信仰の)「クッ(굿)」の祓いが多いが、さほど重大でないときは盲人や僧侶などを呼んで経を上げたりした。

▼西道(서도)地方で盲人僧が読んだ「罷経(파경)」を聴く。飾りのない素朴な感じする祈りの歌だ。

最後に、固有の鬼である独脚鬼(トケビ、도깨비)について次のように解説された。
・未婚の男女、男やもめ、寡婦などの霊や、かんばつや長雨の被害を受けて亡くなった人たちの霊など、様々な霊を列挙し、わずかばかりの慰霊の儀式を行って、彼らの世界へ帰るようにする。
・霊の中に、独脚があり、人間の魂や幽霊と違い、日常に使用しては捨てる火箸や箒、古くなった家具などが変化したものとされる。いたずらな性格で、人を見ると相撲をしようとせがんだり、災難を起こしたりするが、共に仲良く過ごせば金銀財宝をもたらすという。韓国では、「独脚のいたずらのようだ」といった慣用句もある。隣さんのような存在と捉えた昔の人々の優しい心遣いが感じられる。

▼「山独脚鬼(산도깨비)」を聴く。独脚鬼とばったり出会って・・・今様ながらどこか長閑な感じする。(この曲、中学教科書にも載ったという)

2013年12月16日月曜日

イ・ソンヒのトートバッグ

久し振りに友人に会って、彼の仕事がら得意の技術で作ってくれたトートバッグをいただいた。イ・ソンヒがマイクを片手に前かがみして歌っている写真がプリントされているのだ。しかも、小型のファスナー付きの袋(ポーチ?)までセットにして・・・。

(イ・ソンヒさんの熱狂的ファンであるチョン・イェジンさんのブログにある左の写真がプリントされている)

感謝、感謝・・・おじさんとしては・・・以前にも作ってもらった、イ・ソンヒのコンサートポスター写真がプリントされたTシャツと同様、(使うには勿体無く、着るには気恥ずかしく自信もないので)大事に宝物としてしまっておこう。あらためて感謝。感謝。

(本ブログ関連:”夏至2013”、”ライアテア・ヘルム”)

2013年12月15日日曜日

イ・ソンヒの「なぜ私だけ」

イ・ソンヒの6集所収の、「いつか言葉を失いました  笑うことさえ去ってしまい」から始まる、「なぜ私だけ(왜 나만)」(1990年、チョ・ハムン作詞・作曲)は、離別の痛みが癒されぬ歌だ。途中、叫ぶように悲嘆し苦悩の淵をさ迷い、最後に「これが私の行く道なら、どうすればよいですか」と弱さを歌う。旋律の巧みさに聴いてしまう歌でもある。

(本ブログ関連:”なぜ私だけ”)

ところで、中島みゆきの「時代」(1975年、中島みゆき作詞・作曲)も、「今はこんなに悲しくて 涙も枯れ果てて / もう二度と笑顔にはなれそうもないけど」と始まるが、いつかの出逢いを信じて歩き出すという、彼女らしい達観と太さがある。聴くというよりも歌いたくなる歌だ。

イ・ソンヒの30周年に、彼女のバックグラウンドを活かした、地に太く逞しい曲が登場することをどこかで期待している。

2013年12月14日土曜日

繰言

流行は、雑誌(紙)、ラジオやテレビ(無線)、インターネットなど媒体が進化して、消費の時差をなくしてきた。新しい流行が発生するさまを、まるで傍で見るようになってきたのだろう。それでも、流行の発信地は、あまり変わってないようだが。

昔、母親から聞いたことで、昭和の始めころ、東京のファッションが九州に届くのに1ヶ月ほどかかったという。私が子どもの頃は、アメリカのポップが日本に流行るのにやっぱり時差があった・・・それがどれくらいかというと音楽事情をよく知るわけがなく何ともいえないが1ヶ月くらいだっただろうか。ラジオから流れる、ビルボードやキャッシュボックスの最新順位に耳を傾けてはメモをした・・・子どもの間では、曲名だけでも十分知った振りができたわけで。

ところで歳を重ねると、流行に目が向かなくなり、時間差も気にしなくなる。例えば「ことしの流行語」も、いわれれてみれば、そんなものがあったねと振り返る程度。大晦日の晩の番組「紅白歌合戦」も同様なわけで・・・初めて聞くものが増えてくる。

流行に敏感でなくなる・・・だから、歳をとるという実感は、流行り廃りよりも変わらぬものに、受け継がれるものに関心が向くことから気付く。昔から、年寄りが古典を読めといったのもよくわかる・・・解説、評論本でなくて、原典(原本じゃないよ)を読まなくちゃ・・・こういうのを、老いの繰言という。

2013年12月13日金曜日

来年(2014年)、イ・ソンヒのデビュー30周年

1984年7月29日、MBCの「江辺歌謡祭(강변가요제)」にデビューして以降、節々にコンサートを重ねてきたイ・ソンヒは、来年30周年を迎える。

彼女の公式ホームページには、30周年の節目である来年7月29日を特記しているが、この日に記念コンサートが開かれるのではないかと期待する。

現在、彼女が27歳のときに語った自伝的な記事を本ブログに掲載させていただいていおり、まさに上記の江辺歌謡祭に遭遇した際の彼女の心境、スタイル、家族、および人間関係など知ることができる。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー”)

ともあれ、いまだに彼女の人気の強さに驚くと同時に、来年2014年には、前回2011年のときと同様、その姿をコンサート舞台でまた見たく待ち遠しい。

2013年12月12日木曜日

(資料)イ・ソンヒの過去の日本公演と日本語曲

イ・ソンヒは日本で少なくとも二度公演している。彼女の公式ホームページから次のように知ることができる。

大阪花博覧会(正式名称「国際花と緑の博覧会」、1990年4月1日~9月30日)で、5月22日に催された「韓国の日記念行事」に出演。

・東京の水道橋にある「韓国YMCAスペースワイ文化センター」で、1995年5月8日~6月6日に催された「YMCAチャリティー基金コンサート(正式名称「韓国大衆文化芸能祭」?)」の5月28日、29日両日に出演。

なお、イ・ソンヒは日本語CDを一度出しているようだ。ポニーキャニオンより1993年5月21日に発売されたもので、小型CD版に「空がくれたもの」と「見せたいけしき」の2曲(作詞:夏目純、作曲:都志見隆、編曲:萩田光雄)が収録されている。残念ながら、現在ネット上で聴くことができなくなってしまった。

KBS Worldの「Artist Search」でイ・ソンヒについて紹介している文中に、「90年まで、イ・ソンヒはヒットを出し続け、順風満帆な歌手活動を送る。このころ、香港で英語盤アルバム『Where The Love Falls...』を、日本ではシングルを発表し、海外進出を試みる。」がある。

90年代前半にどのように<日本進出>が企画され、なぜ果たせなかったのか知りたいところだ。

2013年12月11日水曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「7.『江辺歌謡祭』の裏話」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第7回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、いよいよ才能が世に見出される瞬間の「江辺歌謡祭」での大賞受賞にかかわる数々のエピソード、あるいは出場したときの名前のセンシティブな情報など・・・まさに数々の裏話を知ることができた。(今回、原文中に特定字句の脱字がいくつか見られた:表示上の理由か?

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[7] 「江辺歌謡祭」の裏話
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私は一人でソロとして、<4>はグループとして、江辺歌謡祭に参加した。

私は(ソ)ロの決選にのぼったが、<4>は予選で脱落した。私は、学校の名誉のために決選で「イ・ソンヒ」の代わりに<4>というチーム名の中に私の名前を埋めてほしいという、先輩の提案を受け入れた。決選で、サークルの先輩イム・ソンギュンさんが、その他伴奏と和音を合わせてくれた。

純粋な気持ちで、私が属した音楽サークルを助力しようとしたことなのに、後日あたかも私が<4>の知名度にタダ乗り(無賃乗車)したように知られたのは、今考えてもとんでもないことだ。

私は、84年の「江辺歌謡祭」もまたTVに中継がないと思っていた。例年は、確かにFMラジオでだけ放送されたのを記憶していたから。さらに、生放送で中継されるのをあらかじめ知ったならば、私は多分参加願書も出さなかっただろう。大学入学後にも、私が勉強よりは歌に陥っている姿を父は極めて不満だった。内心、頑固な父を説得できる「締切期日」を、その年の秋ぐらいに捉えていたので、私はまず父に「バレ」ないことが急務であった。

「江辺歌謡祭」の1、2次予選はソウルで執り行なったが、最終予選と決選は南怡島で寝泊りしながら進行した。「これは困った。家に何か言い訳して抜け出すか。数日だが・・・」

結局、私はちょっと無理をしなければならなかった。ムシムシする7月の蒸し暑さの中で、私は往復5時間の距離の、家と南怡島の間を三日間毎日行き来したのだ。

待望の「江辺歌謡祭」決選の前日、私は「変装」した。ひょっとして父や知り合いがTVを見ても、私が誰なのかを見間違えるようにしようと。まず、頭をチリチリにパーマしたし、メガネも視力が似た友人のものと替えて使ったその上、行事当日の演出者シン・スンホ先生の強要(?)で、着ていたジーンズをスカートに着替えたので、それなりにほとんど完ぺきな変装をしたわけだ

その時借りてはいたスカートの持ち主は春川から来たオ・ヘウォンという女子中学生だった余裕がなくて返すことができなかったが、今も家に保管している。この記事を読むことになれば、その時の私のジーンズとヘ・ウォンさんのスカートを交換をする心の準備はないのだろうか・・・。

「江辺歌謡祭」TV生放送時間のカウントダウンが始まった時、私は瞬間的に現場から逃げるところだった父が近づいて来たのだ叔父と叔母も一緒に

叔母はMBC FMを通じて江辺歌謡祭の案内放送で私の名前を確認し、直ちに父に連絡して私を「捕らえに」「出動」したのだった。

私を一時見おろした父の口から想像もできない言葉が流れて出た「せっかくこのようになったこと、必ず1等になりなさい、学生時代の良い思い出を作ると思って・・・

夢にも見られなかった「応援団」が現れたのだ。あらためて決意を固めて舞台に上がった。観客席の中の父と目を合わせて呼吸を整えた。

それなりに最善を尽くしてを歌ったが、「大賞」を授かるなんて想像さえしなかった。

私が心の中で「1等」と目をつけたチームは、「アダダ」という歌を歌ったあるデュエットだった。彼らがどの順位にも入ることが出来なかった事実は、今も理解することができない。

(「Jへ」)で、大賞を獲得した後、私はあらゆる流言に苦しめられなければならなかった。いったい「J」が誰なのかということだった。ある新聞か雑誌は、「J」の仮想図をカラフルに載せたりもした。長身に俊秀な容貌だが、洋服の上着に韓服のズボンを好んで着る変わり者の文学青年とか、実名は「ノ・ソクヒョン」なのに「ノ・ソクチン」というペンネームを使うとか、「J」というイ・ソンヒの祥明女子高時代の片想いとか・・・。

    (注)歌「Jへ」に登場する「J」については、作者のイ・セゴンの言葉から知ることができる。

あまりにも問い質すので、ある席だったか「J」という私の甥(姪)の「ジェヒ」を意味すると話してしまった。その声を聞けなかったある記者は、「ジェヒ」が誰かとまた何度も尋ねた。「ジェヒはわが家の子犬の名前です」

冗談で発した返事だったが、いやはてさて、その記者はその話をそのまま記事にしてしまった。「『J』は、イ・ソンヒが飼っている犬の名前だ」と。

誓って、特定の「J」は、この世界にいない。子どもも、青少年も、また中年層さえも口ずさみながら歩いたように、「J」という、誰もが自分の胸中深く大事におさめている思い出の恋人であることもあれば、また、幼なじみであることもあるのだ。チャン(Jang、장)さん、チョ(Jo、조)さん、チョン(Jeon、전)さん、チュ( Ju、주)さんなどが、自分を忘れられないという歌詞を聞いて、非常にうれしがるという話も聞いた。

(「Jへ」)は、私としては信じられないほど大ヒットをした。1985年1月には、放送回数95回で、最も放送された曲になるほどだった。その時、2位はナミ(나미)氏の「クルクル(빙글빙글)」、3位はイ・ウンハ(이은하)氏の「恋もしたことない人は(사랑도 못해본 사람은)」であったと記憶する。

(「Jへ」)の人気は、MBCとKBS両放送局の間の見えなかった「壁」を崩したという話も聞いた。その前までは、MBCの歌謡祭の出身歌手がKBSに出演するということはほとんど想像も出来ないことだったので、私は今でもその時「糸口」をつけたのをこころよく思っている。

さらに、その年12月30日には、KBS「放送歌謡大賞」の新人賞まで受賞した。MBC側で、それとなく期待を抱いていたが、ライバルの放送会社から賞まで与えるとは・・・私もうれしかったが、MBCのシン・スンホ先生は私よりもっと喜ばれた。「ソンヒ(ソニ)よ、きみ、堰の水を切ったね」

MBCでは、その翌日(12月31日)、私は10代歌手に選ばれたし、新人賞に加え最高人気歌手賞まで上乗せてくれた。 3冠王・・・江辺歌謡祭(7/29)以後、ぴったり五月ぶりにあげた収穫だった。

TVをつけたりラジオをつけるたびに響き渡る私の歌に父は慌てた。仕事がそんなに大きくなるとは(?) そこまで予想できなかったのだ。「おまえ、それは趣味でやったことではなかったのかい?」

しばらく歌って彷徨(?)していれば、再び勉強するだろうだと信じた父は、日ごとに職業歌手になっていく私の姿に、ある危機感を感じたようだ。

芸能人に対してはいつも否定的な見解を持っている父との「暗闘」は、かなり長い間持続した。しかしながら、「子どもに勝つ親がいるだろうか」。結局、父は条件付きで、私の歌手活動を許諾した。

「醜聞を起こして、マスコミの噂にのぼる歌手にはならないこと。外ではお前がスターかも知らないけれど、家に帰れば私の子どもであり、私にとってまだ子どもでしかないことを肝に銘じること。 少しでも様子がおかしいなら、再び歌を歌えないようにするぞ。」 おおまかにそのような言葉だった。

今は、TV画面に映った私の姿と歌をモニターしてくれるほど私の生活を理解している父に、私はなかなか歌謡界の暗い面を話せない。私自身に関しては、常に恥じることがない生活をしてきたので、父の前でいつも堂々ととしていることができる。

私に対する周りの評価はどうだか分からないし、また別に耳をかたむけたい気もないが、私の両親に関する「悪評流言」(デマ)は断じて説明しておかなくちゃいけない。

父は僧侶であるから、言うまでもなく母もまた僧侶を夫としているので、勤倹節約する生活が体質化した人たちである。

したがって、娘ひとりの(おかげ)で贅沢な暮らしをしながら、貴族生活をしているという噂は、話にもならないことだ。歌手が歌数曲ヒットさせると、まず「夜の舞台」(マイナーイメージの舞台)を流れることがわたしたちの現実だが、両親は酒場で歌を歌うことだけは口を極めて止める。最も簡単に大金を握ることができる所なので色々な誘惑も多いが、私自身「夜の仕事」に出て行くことはいやだ。デビュー当初、何も分からない状態で「先輩歌手もみな出て行くので・・・」という考えで、いくつかの営業場所を転々としていた事実を今でも恥ずかしく思っている。

父は、私のために気苦労をたくさんした娘の有名税を元手に宗団の要職に座ろうという誤解が嫌で、何と2年も寺院を離れていたりもした

母は今でも、市場の床に散らばっているハクサイのくずやカブなどを拾ってくる。節約が習慣になったのだ。周りではこのような母を巡って、井戸端会議がはなはだしい。「外車に運転手まで置いて通う娘、恥ずかしくもないのか。どういうショーだ。貧乏たらしい様をあらわにしているね。ケチん坊。」 後生だから、「スター・ママ」と色眼鏡で見ないで、家庭を築いていく「主婦」としての私たちの母にきれいな視線を送ってくれるのをお願いする。

私は、(「Jへ」)を歌った時から、歌唱力はいい歌手という評価を受けてきた。私も認める私の歌の実力は、1984年11月、チョ・ヨンナム(조영남)氏が進めていた(KBSの)「ナイト・ショー」に招待されて、その場で初めて接したノ・サヨン氏の「あなたの影(님 그림자)」を歌った時、そしてMBCの「ショー2000」に出て行って「キャンパス ベスト10」の曲をひきつづき歌った時、完全に「公認」された。

前回、うっかり忘れて落とした話がある。江辺歌謡祭の決選で、<4>のメンバーで共に歌ったイム・ソンギュンさんとの関係についてのことだ。

江辺歌謡祭で大賞を受賞した後約3ケ月の間は、イム・ソンギュンさんとデュエットで活動した。デュエットという性格上、私は彼に付いて歩く時が多かったし、周囲では私たちの二人の間を恋人関係まで歪曲したりした。

私はそのような視線が負担だったし、また江辺歌謡祭に当初ソロで参加したように、再び一人で歌いたい欲が出た。それで、私が先に決別を宣言したいきがかりで、ソロアルバムを出すことになったのだ。「<4>の名前を借りて優勝しておいて、なぜお前一人だけスターの振舞いをするのか」という当時の一部難詰に対しては、「歌に対する欲念」のためだったと答えれば十分説明できるだろう。

なおかつ、<4>のメンバーや学校の中では、私のソロ活動に何の反感もなかった。おだてたり、けなしたりして愚弄した人たちは、私たちのグループや私とは何ら関連ない人物たちだけだった。

(「Jへ」)で、1等を「食べた」(受賞した)直後、私は地球レコード社と専属契約を結んだ。その時、契約金の名目で受けた金があれこれ差し引けば、5百万ウォン。生まれて初めてつかんでみた「大金」だった。その金は、全額父の白内障治療費に使われた。これまで、「芸能人」になろうと決意した娘のためにかなりひそひそ言われた父に、少しでも報いたというやりがいを感じる一方、何か相殺されたような妙な快感(?)も味わったことを告白する。
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2013年12月10日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 ソウル

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(12/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第34回として、「古都」を語源とするといわれる「ソウル(서울)」にまつわる話を紹介した。

はじめに、韓国の人口・経済の規模について次のような紹介から始まった。
・世界237カ国(世界銀行統計では229カ国)中、韓国は面積で100位に入らないが、人口4900万人で25位、GDP(国内総生産、2012年基準)1兆1600億ウォン超で15位。朝鮮戦争(韓国戦争)休戦から今年60周年を迎え、現在、首都ソウルは千万人超で世界都市中で10位以内に入る。同時に、山と川に囲まれた自然の恵みのあふれる都市でもある。

▼ 短歌단가)の「鎮国名山(진국명산)」を聴く。四囲を指し示すように歌うのだろう・・・力強い。

・短歌はパンソリを歌う前に、歌い手が喉の緊張をほぐす意味で歌う短い歌だ。「鎭國名山」は、ソウルの地について風水の視点で歌った珍しい一曲で、歌詞は全て漢文調のため、韓国人でも理解が難しいと言われる。

「景福宮の後ろに、高く切り立つように険しい峰が、ハスの花のように天に向かってそびえ立ち、三角山(サムガクサン、삼각산)となる。南側には蠶頭峰(チャムドゥボン、잠두봉:現在の龍山(ヨンサン、용산))がある。駱山(ナクサン、낙산)と仁王山(インワンサン、인왕산)はそれぞれ、左の青龍、右に白虎となって、聖なる気運を発し、それが空中に滲み出しながら宮殿へと集まっている。そのため、優れた人物が多く輩出されるのである。」

▼ 正歌の歌曲の「編数大葉(편수대엽) 鎭國名山」を聴く。こちらはゆるりとして・・・雅(みやび)である。

次にソウルの名の語源について次のように解説された。
・「ソウル」は、古都を指す普通名詞だったという。語源に諸説あって、古代の「ソド」と関連があるというのが有力な説だ。「ソド」は、出入りが厳しく制限されていた神聖な地域を指す言葉で、「ソッデ」という棒を立てて印とした。「ソド」、「ソッデ」が変化し、「ソウル」となったという。語源的「神の土地」の意を持つことになり、韓国歌中に「神様のご加護によってわが国は万代にわたって栄えよう」という一節がある。公式的には、
- 1896年、独立新聞に「ソウル」の言葉が初めて使用され、
- 1946年8月15日、ソウル市憲章が発表され、「ソウル」の名称となった。

▼ 京畿民謡「漢江水打令(한강수타령)」を聴く。水流が速いのか、愛も少々せっかちなのか・・・楽し気だ。

(付記)
K-Wikipediaにあるように、一般に「ソウル」の語源といわれる「新羅系の固有語であったソラボル(서라벌)」と、上記の解説はつながるのだろうか。

2013年12月9日月曜日

うたた寝

このところ連日、夕食後にストーブにあたりながらテレビを見ていると、いつのまにか寝入っている。小一時間もすると目覚めて、またやってしまったと溜め息をつく。

この「うたた寝」は「寝」と書き、随分と寝相が悪い。「夢うつつ」という古い心的な振る舞いである「うつろ」につながるなら理解できるが、どうやらそうでもないらしい。

そんなわけで、見ていたテレビ番組の視聴は中途半端に終わるが、問題はその後の寝つきの悪さだ。それじゃあ、まるで子どもの問題のようで・・・。それに、風邪でも引いてしまっては元も子もない。

ところで、このブログのヘッダーのデザインを変えてみたが、つたなさに自信がない。見慣れればと・・・しばらく、これでやっていこう。

2013年12月8日日曜日

キム・ポムニョンの「冬雨は降って」

イ・ソンヒが2011年5月のコンサート「五月の陽射し」で、ゲスト出演したキム・ポムニョン(김범룡、金範龍, 1960年6月3日~)と一緒に彼の歌「冬雨は降って(겨울비는 내리고)」(1985年)を歌う映像がある。80年代をテーマに、同時代をともに駆けた、キム・ポムニョンと歌いつぐ趣向の一場面である。

キム・ポリョンは、イ・ソンヒの例えば5集(1989年)に収録の「貴方よ(그대여)」、「炎のように(불꽃처럼)」の作詞、作曲をしている。

(本ブログ関連:”キム・ポムニョン”)


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2013年12月7日土曜日

ユンノリ

先日(11/23)、新宿の職安通りにある韓国民芸品ショップに韓国語教室の仲間と一緒に寄ったとき求めた、韓国の正月遊び「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を、今日の教室で試した。

蒲鉾の断面に似た、同サイズの棒(ユッ)4本を投げて、棒の平らな面の数だけ盤面(駒版)に記された経路(正方形と対角線)上の点を駒を進める<双六遊び(ノリ)>だ。チーム同士で競い合うことができる。

今日は基本的な駒の進め方を確認したが、進んだ点に自分(チーム)の駒がある場合は合体したり、相手(チーム)の駒がある場合は盤から外したりと・・・いろいろな要素もあるようだ。

ところで、イ・ソンヒの思い出に、小学校(国民学校)時代に、祖父が「クヌギの木で手作りで『ユッ』も切ってくれた」というのがある。彼女をひたすら愛してくれた祖父の思い出は、祖父との懐かしく温かい思い出を持つものに共感できる。


(追記)
NHKの「地球ドラマチック『古代マヤ文字を解読せよ』」を見ながら・・・せっかくの番組なのに寝入ってしまった。今度はしっかり見るので再放送を頼みます。

2013年12月6日金曜日

青空文庫と電子書籍リーダー

電子書籍といっても、最近の書店に並んでいる新刊本の類ではなく、青空文庫に登録されている著作権切れであるが名著として知られる書籍(夏目漱石や折口信夫など)を、小型の電子書籍リーダーで読んでみたい。

青空文庫に登録されている書籍ファイル(XHTML、TEXTなど)を取り込むとき、縦書き表示に変換するため、①アプリを事前にインストールしておく必要がある。そのうえ、②縦書き表示するための処理も必要で一発変換できないようだ。

他に、Web上の縦書き表示ツールで読む方法もあるが、それは携帯PC・パッドの世界(無線)での話で、電子書籍リーダーとは違う。

要は、XHTML、TEXT、PDFなどの書籍ファイルを入れたら、何の処理もなくすぐに縦書き表示してくれる電子書籍リーダーはないだろうか。文庫本のサイズと重さの電子書籍リーダーが一番好ましい。

2013年12月5日木曜日

宵の明星

帰宅途中、南西の空を眺めれば、三日月を追うように輝く星がある、金星だ。微かに明かりが残っている夜空にコントラストを強くして、月に負けずくっきり光っている。

こうやって金星を見るのは久しい。天の動きは地の動き、時が過ぎるのを思うとき、存在の小ささに気付く。といって、「寒さい、寒い」と小言して歩くのが精一杯かな。

金星が一番光度を増すのは、明後日7日(土)だそうだ。天気は次第に崩れて、雨ほどではないが、週末の夜は曇りとのこと。寒さも厳しくなるようだ。

イ・ソンヒが歌う童謡に「星を見ながら月を見ながら(별보며 달보며)」がある。高くて青い空の国お星さまの国に、永遠の笑いの国お月さまの国に住んでみたらと・・・夕べの空を眺める童たちは、子どもながらに、憂いを含めて夢が膨らむ。

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2013年12月4日水曜日

めでたい

めでたいことがあって、めでたい、めでたい。

祝いの歌を探したら、沖縄民謡に「めでたい節」があって、「めでたい めでたい すりすりめでたい めでたい めでたい」のお囃子に、なんだか南の暖かい風に酔ってしまいそうな気がする。めでたいと思うほどに、ますますめでたくなるよ。

人生一度限りという言葉、この歳になってようやく納得するが、どうやら遅きに過ぎる。でも時間のある限り大事にしたい。だから、人生を2度生きるようにすればいいのだ・・・Ampliat aetatis spatium sibi vir bonus; hoc est Vivere bis, vita posse priore frui(善き人は自分の生涯の期間を拡大する; 過ぎ去りし生涯を満足に楽しみうること、これは二度生くるなり)・・・人生満足するといわれても、どうすればいいのかな?

そういえば、サービスの定義に「生産=消費」がある。人生の瞬間(生産=消費)を満足できるように生きよ!というわけ。満足できる生き方を選択する、無理はしないけどチャレンジはしよう。そしてエンジョイしよう。

とりあえず、今宵はめでたい。明日もめでたい。(独りごと)

2013年12月3日火曜日

流行語大賞2013

今年の流行語大賞が決まった。昨日のORICONSTYLEの記事「【2013新語・流行語】年間大賞は史上最多4つ 『じぇじぇじぇ』『倍返し』など本命勢揃い」(12/2)は次のように報じている。(抜粋)
予想した言葉「今でしょ」だけでなく、他に3語も加えて、計4語が大賞という大判振る舞いとなった。

(本ブログ関連:”2013年流行語大賞ノミネート”)
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・その年話題となった新語・流行語を決定する年末恒例の『2013 ユーキャン新語・流行語大賞』(現代用語の基礎知識選)が2日発表され、
- 予備校講師・林修氏の「今でしょ!」、
- NHK連続テレビ小説『あまちゃん』の「じぇじぇじぇ」、
- TBS系連続ドラマ『半沢直樹』の「倍返し」、
- 東京五輪招致のプレゼンテーションで滝川クリステルが日本をPRする際に使用した「お・も・て・な・し」
が年間大賞に選ばれた。1984年に創設され、今年30回を迎える同賞において、史上最多となる4つの“言葉”が大賞に選ばれた。

・・・・また、選考員特別賞として「被災地が、東北が、日本がひとつになった 楽天、日本一をありがとう」が選ばれた。
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KBS WORLD「国楽の世界へ」 伽椰琴

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/27)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第33回として、日本の琴に似た弦楽器「伽椰琴」にまつわる話を紹介した。

まず、弦楽器「伽椰琴(カヤグム、가야금)」の歴史から次のように紹介された。
・世界には多種の、世代、ジャンル、あるいは宗教によっても、それぞれに音楽がある。一国の王ならば、国民固有の音楽に対するプライドを願ったかもしれない。伽耶(3世紀~6世紀中頃)末期の王、嘉悉(カシル、가실、?~?)は、(韓国)史上、最初に音楽の力で民を治めることに注目した。この王の下に誕生したのが弦楽器の「伽椰琴」だ。

▼ 「霊山会相」中の「上霊山(상령산)」を聴く。18世紀以降の両班の風流音楽らしく揺ったり流れる。

次に、伽椰琴の創生に関わる嘉悉王と于勒(ウルグ、우륵)の話題を次のように説明された。
・伽椰琴は改良され、様々な音楽に広く使われたが、「上霊山」の演奏に使われた伽椰琴は、「正楽伽椰琴」と呼ばれ、1500年ほど前に誕生した当時の形を維持しているという。

(注)伽椰琴には、正楽演奏の「正楽伽椰琴」と、民俗楽演奏の「散調伽椰琴」の二種類がある。

・伽椰琴の創始者は、于勒が有名。(「三国史記」に、楽器作成者は嘉悉王とされている)
・伽椰琴の、半円形の上面は「空」を、平らな下面は「地面」を、弦の支えは12ヶ月を表し、奏でる音が自然に溶け込むよう考えられている。楽器が出来た後、嘉悉王から、「各国に方言があるように、音楽もひとつである必要は無い。お前が伽耶という国にふさわしい音楽をつくるのだ」と命ぜられた于勒は、伽耶国の地方名を曲名とし、全12曲を作曲した。最初の曲は「ハガラド(하가라도、現在の金海市地域,)」、2番目の曲は「サンガラド(상가라도、現在の高霊地域)」となっている。

▼ ファン・ビョンギ作曲の「加羅都(カラド、가라도)」(1963年)の第1章を聴く。古趣ただよう・・・透明感のある今様である。

最後に、伽耶から新羅に投じた于勒と、新羅王の真興(ジンフン、진흥、534年~576年)との交流を次の通り解説された。
・于勒が12曲を完成させてすぐ、伽耶は新羅に滅ぼされる。于勒は、国の危険を察し、伽椰琴と作曲した音楽を持って新羅に投降した。新羅の真興は、于勒を歓迎し、自国の若者たちを于勒の元へ派遣し、そのメロディーを学ばせた。于勒の音楽をマスターした若者たちは、さらに思いを込めた編曲と演奏をした。この事を耳にした于勒は、初めは怒りを示したが、若者たちの演奏を聞き、涙を流し感嘆したという。
・また王も、こうした新しい音楽を好んで演奏させた。それに対し家臣たちは、 滅んだ国の音楽は、わが国をも滅ぼすと揃って抗議したが、王は、国が滅んだのは王の責任であり、音楽には何の罪もないと主張し、伽耶伝来の音楽を、新羅のものとして演奏を指示した。伽椰琴が現在までに伝えられたのは、その価値を見抜いた真興王のおかげだとも言える。

▼ ファン・イジョン作曲の「于勒の舞(우륵의 춤)」の中から第1楽章を聴く。軽やかな・・・今様である。

2013年12月2日月曜日

ウィンター・ワンダーランド

子ども時代、温暖地帯にある当時の家の造りは、今様に密封型ではなかった。ガラス窓と廊下の更に内側に障子で仕切った畳部屋があった。冬の夜になれば、木製の雨戸を閉めるのは必須だった。微かに隙間風がしみ込む部屋を暖めるのに火鉢を置いたりしたが、どれほどの暖房効果があっただろうか。けれど家族が集まれば、それだけで暖かく、交わす言葉にいっそう温もることができた。

今は、建物の構造が変わったし、暖房装置も石油やガスや電気を使うようになって、昔とは考えられない環境になっている。そんな変化の時代をまたいできたからか、懐旧も含めて、古い冬の歌に温もりを覚えるのかもしれない。

それは、興味しんしん眺めては触ろうとするたび親にたしなめられた、テーブルの上のいただき物のようなものだった。ビング・クロスビー(Bing Crosby、1903年5月3日~1977年10月14日)が歌う、「Winter Wonderland」(Richard B. Smith作詞、Felix Bernard作曲、1934年)はそんな歌だった。ワンダーランドの響きは、不思議というより、次々に素晴らしいものが飛び込んでくる憧れと期待の世界でもあったのだ。


(Youtubeに登録のChristmasTimeTVに感謝)

2013年12月1日日曜日

残った林檎は12分の1

今年、残り2ヶ月しかない11月にならんとしたとき、それを林檎の実にたとえて、6分の1しか残っていないと嘆息した。今日から12月、最早12分の1を切るに至った。6分の1と12分の1では、見た目にも、気分も大違いだ。

(本ブログ関連:”残った林檎は6分の1”)

12月になると、今年のカレンダーはますます存在感が薄れて身の軽さに揺れる。来年のカレンダーは、秘かに虎視眈々とその座を狙っている。私も移り気なのか、今年のカレンダーには目もくれない・・・そんなことはないけれど、壁に掛かっている余命1ヶ月のカレンダーの心境を思うと、最後まで見届けてやろうと思う。

一足速く、この冬まだ見ぬ雪景色を、イ・ソンヒの「雪が降る(눈이내리네)」を聴きながら楽しもう。

(Youtubeに登録のYoungbum Kim·に感謝)

これは、アダモ(Salvatore Adamo)の「雪が降る(Tombe la neige)」(1963年)のカバーであり、イ・ソンヒのアルバム「冬の日のものがたり(겨울날의 이야기)」 (1988年)に収録されている。

(本ブログ関連:”雪が降る”)

2013年11月30日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。

▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)

2013年11月29日金曜日

地震があったんですけど

今日の日付に変わった真夜中の01:15、ドンと響いて次第に揺れがおさまったが、地震発生が最近集中する、千葉県北西部を震源にしたものだ。先週の日曜日も深夜00:50に、同じ千葉県北西部を震源にする揺れがあった。しかも深夜に地震が続くのはいい気分がしない。

(本ブログ関連:”地震が・・・”)

今日の地震について、気象庁の発表(11月29日01時19分)は次の通り。
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29日01時15分頃地震がありました。震源地は千葉県北西部で、震源の深さは約80km、地震の規模4.8と推定されます。
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地域別の震度発表では、当地の震度は「2」で、体感もそんな感じだった。


(付記)
そういえば、話題の「アイソン(ISON)彗星」が、太陽に近づいた(近日点通過29日)ところで、蒸発してしまったという話があったけれど、どうにか命をつないでいるいるという報道もある。
旅行会社主催のチャーター機に乗って、アイソン彗星を観察するというイベントがあるそうだが、どうなるのだろうか・・・12月7日の早朝に飛び立つ計画だそうだが。

2013年11月28日木曜日

石が逃げる

本当は、石が逃げれば良いのだが。美しい結晶を内蔵した岩石が、人の気配を察して地中深くに退避したら石泥棒のような事件もなかったろうに・・・それはさておき。

俳人といっても、「古句を観る」の著者としてしか存じぬが、柴田宵曲(しばたしょうきょく、1897年9月2日~1966年8月23日)の短文「動く石」に下総国葛飾郡立石村の石掘りの話しがある。畑中にある石を掘り返そうとしたが根が深くなかなか取り出せない。翌日行ってみると、石はまた深く潜り込んでいたというのだ。

江戸時代、近江国の木内石亭(きうちせきてい、1725年1月14日~1808年4月6日)の「雲根志にも触れられていて、「石の根を見んとして掘ったところ、言い伝えるごとく黄色の木の根の形をした石が土中にはびこっていた。その時、忽(たちま)ち石が振動、手伝った者どもは前後不覚の体となり、大いに病んだという。その後、この石の根を穿(うが)ちほじる事を固く戒めたという。」との記載がある。

(*) 「雲根志」:九州大学総合研究博物館 DIGITAL ARCHIVE

この石、現在の東京都葛飾区立石にある「立石様」の由来のようだ。インターネットに、さまざまな記載を見ることができるので、それらを元に一度現地を訪ねてみたい。

ネットの情報から、石が地中に逃げるという立石様の周辺には、「南蔵院裏古墳」があることから、石室との関連が推測できる・・・つまり、地中に空洞があってズリ込んだのではないかということだが・・・素人考えなので不思議な話のままでいようか。

2013年11月27日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 風流

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/20)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第32回として、「風流(풍류)」について紹介した。

まず、統一新羅時代(676年~935年)末の文人崔致遠(최치원、858年~?)による、「風流」の紹介から次のように始まった。
・崔致遠は、まだ12歳の頃に一人、唐に留学して勉学に励み、(874年)18歳で外国人のための科挙試験に合格した。その後、「黄巣(こうそう)の乱」の討伐軍軍師として従軍する。その折、黄巣が掌握した地域に、非難の文書を書いて撒いた。その文書の素晴らしさに、黄巣が驚いたという逸話がある。黄巣の乱を治めたのは、刀の力でなく、崔致遠の文章力だったといわれるほど、彼の文書の影響が強く認識された。
・後に、新羅に帰国した崔致遠は、有名な人物の碑文など多く書き残した。「鸞郞碑序」に、花郎(화랑)に関する一節、「國有玄妙之道曰風流~」(国には玄妙な道理があり、これを風流という~」がある。(同文は、高麗時代の「三国史記」(作成:1143年~1145年)に記載されている)

▼ 「霊山会相(영산회상)」の中から「細霊山(세령산)」を聴く。そこかしこに、アリランの風味がしてくる風流音楽。

次に、「花郎」の教えでもあったといわれる、「風流」と音楽について次のように解説された。
・花郎は、新羅の貴族子息の教育機関、或いはそこで教育を受けた人たちを指す。 「鸞郞碑序文」にある風流は、花郎の道(教え)のひとつと言われる。花郎は、「国仙」と言いい、言葉の通り、仙人のように景色のよい場所を訪ねては修練に励み、そこで、歌や音楽を楽しんだとも言われる。風流という言葉が今日、粋に遊ぶこと、麗しい情緒、俗なことを避け、高尚な遊戯にふけることといった、意味を持つようになった理由も、こうした過程から来たといわれる。
・朝鮮時代となると、ソンビ(博識な学者)たちが「舎廊房(사랑방)」に集い、音楽を聴いたり、絵を描いたり、詩をしたため、互いに意見を言い合った。こうした空間を「風流房(풍류방)」と呼び、そこで演奏しあった音楽を「風流音楽」と呼ぶ。酒のたしなみもその一つのよう。

▼ 酒を勧める「歌辞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。酒杯ゆらり時に任せ、香りと味を楽しみたくなる・・・このまま酔いどれて。

最後に、風流音楽の種類とその意義を次のように説明された。
・風流音楽を、単に「風流」と呼ぶこともある。(朝鮮時代後期の)曲目「霊山会相」や、「ドドゥリ(도드리)」といった音楽は、弦楽器を中心に構成される演奏曲で、弦を表す「ジュル(줄)」をつけて「ジュル風流」という。また管楽器がメインとなる構成の場合は、その演奏を「テ風流」と呼ぶ。「テ」とは、管楽器の原材料の竹(テナム、대나무)の「テ」にちなむ。
・風流音楽は、楽器の構成を単純化し、ゆったりとした、観照的なメロディーを持つという特徴がある。淡々としていているが、心身の緊張を解きほぐし、自分自身に没頭する瞬間を作る。

▼ 「新水龍吟(신수룡음)」、「副題、還生(환생)」を聴く。基調に硬く・・・今様である。

2013年11月26日火曜日

イ・ソンヒの「ひとしきり笑いで」

イ・ソンヒの5集所収の「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」(作詞作曲ソン・シヒョン、1989年)は、彼女の歌の中で、「あ!昔よ(아! 옛날이여)」、「美しい江山(아름다운 강산)」、「ケンチャナ(괜찮아)」などに通じる、何かを吹き払い、いかにも前向きな響きがする、韓国らしいトーンの強い曲である。

(本ブログ関連:”ひとしきり笑いで”)

ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
 
私は再び眠りたいだけ、子どもの頃のように夢の中で
私は再び夢を見たいだけ、ひたすら笑っていた子供の頃のように
 
若いため息、ため息が薄れる日、世界は本当に美しいよ
若い傷跡、傷跡が薄れる日、世界は本当に美しいよ
 
ひとしきり笑いして、知らないふりをするには
この世界の若いため息が、あまりにも深くて
ひとしきり涙して、忘れてしまうには
この世界の若い傷跡が、あまりにも大きい
 
(Youtubeに登録のsunnyfan100に感謝)

2013年11月25日月曜日

(資料)レイフ・ギャレット

昨日(11/24)登録した、「(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー『5.私はもうこれ以上内気な子どもではなかった』」から、気になった点や、関連情報を次のように加える。

イ・ソンヒは、小学生の頃に自分なりに童謡をアレンジして(風味をつけて)歌ったそうだが、中学生になると韓国の大衆歌謡だけでなく、カントリー・シンガーソングライターのジム・リーブス(Jim Reeves、1923年8月20日~1964年7月31日)の歌「He'll Have to Go(가야만 하리)」まで歌ったという。

イ・ソンヒ誕生は1964年であり、その年に上記ジム・リーブスは飛行機事故で亡くなっている。そのことを考えると、イ・ソンヒが中学生時代に、彼の歌を選択した背景に何があってのことだろうか。中学生の多感な時期とはいえ、まだ何を歌えばよいのか、自分にあった曲は何なのかという模索を始める前だったかもしれない。いいかえれば、彼女が書を濫読したように、音楽についてもあらゆるものを吸収しようとしていた時期だったのだろう。

イ・ソンヒが中学2年の時にようやく巡り合ったのが、新しい曲スタイルのレイフ・ギャレット(Leif Garrett、1961年11月8日~)だった。韓国のWikipediaには記載がないが、ハンギョレ紙の記事「来韓公演の歴史を書いた歌手たち」(2010年7月28日)は次のように記している。
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レイフ·ギャレット、アメリカの男性ポップ歌手。1980年、ソウル南山崇音楽堂で公演した。(ティーンエイジャーの)女性観客たちが肌着(下着)をステージに投げて話題になった。当時の公演を報道した記事には、「狂乱」、「奇声」のような言葉が登場した。来韓公演のオープニングは、多少突飛にも、第1世代の韓国のヘビメタルバンド「シャーマン」が引き受けた。
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2013年11月24日日曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「5.私はもうこれ以上内気な子どもではなかった」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第5回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが多感な中学時代に経験した、ジム・リーブス、レイフ・ギャレットなどの音楽や、教師との出会いを、そして夢膨らむ高校時代に、5人組(歌)の音楽グループ結成などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[5] 私はもうこれ以上内気な子どもではなかった
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1978年、私は信光女子中(신광여중)に入学した。制服を着て頭は髪を短くしたから良かったものの、ややもすれば国民学生(小学生)と間違えられるほど私は依然として小さかった。

2年生のときまでやはり1番、3年生のとき背番号は62番だった。私が突然成長したのでなく、3年生のときは背の大きさの逆順で番号を付けたためだ。

だが、声だけは誰よりも大きくて冴さえていて、音楽の時間はそれこそ「ほとんど私の独壇場」であった。

秋の運動会や遠足の道で、私は必ず招待歌手のもてなしを受けた。パティ・キムの「初虞(초우)」やジム・リーブス「(彼は)行かなければならないだろう」を好んで歌ったし、校長先生は歌が終われば私を呼んで直接飲み物をついでくださって、ほめられたりした。

    (注)記事には”짐.브리스”とあるが、ジム・リーブス(Jim Reeves)の誤記と思われる。

私は音楽の教科書に入っている歌曲や民謡よりは、ラジオに流れてくる韓国歌謡により一層心が引かれた。

ラジオ歌謡に従って口ずさみながら本を読むのは何ににも変えることのできない私だけの時間、私だけの幸福だった。

中学時代に出た活字化された印刷物は、何でも片っ端から読んだ。それこそ多読雑読というほど。歌謡だけが全てだと思っていた私は、中学校2学年の時、はじめてポップ・ソングの魅力を感じることになった。

金髪をゆらゆらと垂れた美少年歌手レイフ・ギャレット(Leif Garrett)のソウル公演が契機であった

(1980年の)ギャレットの公演には、色々な話も多かった。当時、一部の興奮した若者たちが肌着を脱ぎ捨てたり、発作を起こすまでするなど、マスコミの言うように「狂気」を見せたその現場に私もいた。

しかし、会場である南山の「崇音楽堂」に入るまで、レイフ・ギャレットがそれほども評判のいい歌手だとは、本当に知らなかった。ただし、ライブではなく、録音された曲に合わせて口を開ける(口ぱくな)誠意のない公演だったが、不自然でないほどアクティブなギャレットの舞台マナー、幻想的な光の中でさらに多くの光線を噴出した彼の容姿、そして客席の床まで振動が感じられるほど爆発的なサウンドは、私に大きな衝撃を与えた。世の中にこんな歌もあったんだ。

彼の公演以後、私の愛聴ラジオ番組の目録には、深夜のポップソング番組が追加されたことはもちろんだ。恋人に「すっぽかされた」友人の兄さんに無料でもらった、レイフ・ギャレット コンサート チケット一枚が、私を新しい音楽世界に引き込んだのだ

中学時代の私は、永遠に忘れるができない恩師の一人に出会った。国語科目を担当しておられたヤン・ソンオク先生がまさにその方である。

授業時間ごとに、私が国語の教科書を読む姿を注意深く見守られた先生は、ある日私を教官室に呼んだ。学生が教官室に呼び出されれば十中八九「ひどい目にあう」ことが決まっているであろうために、私はいっぱい緊張した状態で教官室に入った。

だが、意外に先生は私の声がとても朗々(낭랑)として発音も正確だといって、雄弁班に加入することを薦められた。先生は、ご自宅に私を引き連れて、雄弁練習をさせるほど熱心であられた。結局、私は校内雄弁大会で優秀賞を受賞することによって、先生の愛情に少しでも恩返しをすることになった。「最優秀賞は逃したものの、2等はなんともはや」

雄弁を通じて、内省的な性格がある程度「改造された」私は、合唱団にも入ってソプラノで活動したし、学芸会の時は(児童劇の)「靴直し屋と銀行頭取」という演劇に主演で出演したりもした。私の演技がよほど実感できたのか見物にきた高校生のお姉さんたちも絶賛した。すべてにますます自信が生じた。

周辺に友人も一人、二人増えていった。学校生活も楽しいばかりだった。

行きがかりで私は指揮者として前に出た。校内合唱大会で優勝した私たちのクラスは、教育区庁大会にまで進出した。

    (注)教育区庁:ソウル特别市など広域市の教育委員会下部执行機関。

ただし、ランキングに入れなかったが、世宗文化会館の舞台に立ったという事実、しかも舞台上の小さい舞台である指揮台に上って格好良くフォームをつけて指揮をしてみたという事実だけを考えても、(ランキングに入れなかったことを)うらやむことはなかった。

前述したように、中学校時代、私は片っ端から本を読んだ。特に「ロミオとジュリエット」は何度も繰り返し読んだ本だ。

そうしているうちに、孔子の「韋編三絶(一冊の書籍を繰り返し繰り返し読む)」という話そのまま、文字通り本自体がボロボロになった。ロミオとジュリエットの年齢が私とほぼ同じなので、それだけ共感の幅も大きかったようだ。

韓国近現代の名作や世界の名作という古典は、それなりの基準を持って読んだ。いくら不朽の傑作と評価される小説でも、ある程度読んでつまらなければ、二度と調べてみなかった。今でも、興味の要素が欠如した文は、めったに読まれない。だが、かなり重い主題を下地にしていても、プロットや表現、または気持ちにすっぽり入る登場人物があれば明け方まで火を灯す。

探偵小説の類いと武侠誌も私の読書履歴で絶対に欠かすことのできない本だ。ルパンは、無性に小面憎かったし、シャーロック・ホームズはとても素晴らしく感じられた。日常生活でも、あたかも探偵にでもなったように塀に背中を密着させて、左右をきょろきょろ見回しながらわけもなく敏捷なふりをしたりしたし、教室で鉛筆一本がなくなっても、犯人を捕らえるといったあらゆる推理を動員したりした。さらに、夢の中ではプロックコートにチェック柄の帽子、その上パイプまで口に咥えてワトソン博士とコーヒーを飲んだりもしたほどだった。

漫画本もたくさん見た。最も感動を覚えた漫画は「ガラスの城」だ。ありふれた文芸作品より、はるかに秀作ということを今でも信じて疑わない。「キャンディ」はそれほどであったし、「男女共学」も「アカシア」もとてもおもしろく眺めた。夜遅くまで、小説と漫画にはまってみると、中2の頃、視力が急激に落ちてメガネが必要になった。今使っているメガネも、その時の小説と漫画のお陰だ。

中学校の時は驚くべきことに、ただ一度も学校を移ったことがなかった。ときおり、信光女子中の後輩から「信光が産んだ2大スターは、ソンヒ姉さんとタレント イ・ミスク姉さんです」云々という手紙を受けるたび、はっきりした母校を持っていることをとてもに幸いに思う。

1981年3月、私は祥明女子高(상명여고)に進学した。私は、もうこれ以上内気な子どもではなかった。

歌が好きな友人たちと5人組グループを結成して、活発な演奏活動を広げることもした。

ところで面白いことに、私たちのグループの名前はなかったのだ。昨日は「アカシア」であって、今日は「クリスタル」という式で、メンバーの気分のままチーム名称を変えたりした。

私たちは、養老院や孤児院を訪ねて行って慰問公演を繰り広げたし、校内サークルであるRCT、MRA(道徳再武装運動:Moral Rearmament)、ガールスカウトなどの招待を受けて、きれいな和音を入れることもした。私たちのグループの「名声」は口から口へ広まった。

    (注)RCT: サークルについて不明

そのようなある日、近隣の男子高等学校で祭りの時、特別ゲストに私たちを招待するというではないか、胸がむやみにときめいた。

当時、私たちの5人組グループ・メンバーは、私をはずしてみなスマートで美しかったが、特にピアノを担当した友人は「絶世佳人」というに値するほどの美女であった。

講堂をいっぱい埋めた丸坊主の男子学生の視線が、ピアニストに集中したことは自然の「摂理」であった。

だが、順序に従い、私が独唱を終わらせた時状況は逆転した。思いもよらぬ度外れた歓呼と拍手喝采の中で「アンコール、アンコール」の要求がとどまるところを知らなかった。その時から、私は男子学生が「よそ見」しないように、彼らの目と耳をぎゅっとつかむのに成功した。同じ年頃の少女たちに認められた私の歌が、少年たちにも通じる可能性があることを確認した貴重な舞台であった。

私は歩くのが好きだった。高3の時まで地下鉄があることも分からないほどだ。バスもほとんど利用することがなかったので、バスに乗るたびに友人にバス料金を確認しなければならなかった。

登下校するたびに、必ず通り過ぎなければならない三角地(삼각지)陸軍本部近くの街路樹の道を私はとりわけ好んだ。帰宅途中に、友人とともに小道に沿って歩きながら楽しんだ「カバンかつぎ」は、今でも鮮やかに目に浮かぶ。

ジャンケンに無性に強い私なので、友人が私のカバンまで持たなければならない場合が大部分だったが、たまたま私が友人のカバンを持つことになる時は、(さらに)カバンの一つ持つことで恥ずかしい思いを受けなければならなかった。

ひとまず私は、二つのカバンを開きあけて中身をみな取り出した。それから教科書や辞書、重い参考書などをカバンの一つにまとめ入れて、こわれやすい物や軽い物などで、他のカバンの一つを満たした。

その次の段階は、「投げること」の連続だった。力いっぱい手前にバッグを投げては取り・・・

ある日のこと、通りすがりの黒人兵士の一人が痛ましく見えたのか情けないと感じたのか、つかつかと大股で近寄ってカバンの二つを持ってくれたこともあった。

1年生の2学期末から、私は絵にすっかりはまった。だいぶ素質があるように見えたのか、美術の先生は学校付近の画室を推薦してくださった1年と一学期をさらに通ったから、かなり長い期間を染料の臭いの中で送ったわけだ。

父は、私が絵に没頭することがやはりとても不満だった。「お前はやれという勉強はしなくて、よりによって『芸人』、でなければ『金稼ぎ』か」といって、筆や染料を目につき次第なくしてしまった。

母はそれでも「あなたが、そんなにもしたいのであれば...」といいながら、父にこっそりとアトリエ(画室)の登録費や美術道具代を渡してくれたりしたが、結局父の厳しい反対で画家の夢は中途で放棄するほかなかった。
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2013年11月23日土曜日

三段バラ

三段バラといっても、3段腹ではない。韓国料理の石焼き生三段バラ(サムギョプサル)を、いつもの教室仲間たちと新大久保に出て楽しんだ。

実は今日、教室が休みという連絡が事務局からあって、先に新大久保に出かけていたメンバーから誘いをいただいた・・・教室は休みなんだから、行かねばならない、食べねばならない。

みなと落ち合い、CD・書籍ショップ(コリアプラザ)に寄り、小冊子の「ちょっと気になる  韓流[ネット]用語99選」(KEJ)を入手した。本冊子はどちらかというと、流行語でしかも意味を圧縮したような略語の解説集だ。
例えば次のような紹介がある、「ベイグルニョ(베이글녀)」 = 「베이비(baby)」+「글래머(glamour)」+「녀(女性)」というわけで、「ベーグル女」ではない。「ベイビーフェイスにグラマーな体つきをした女性」を指すという具合。SBSのテレビドラマ「僕のガールフレンドは九尾狐」でキュートな女性(狐の化身)役をしたシン・ミナなどがあたるそうだ。

同じ系列店の伝統工芸品・化粧品ショップ(仁寺洞)にも寄って、正月の子ども遊びの「ユンノリ(윷놀이)」の遊具を求めた。Wikipediaにも解説があるので、参考にして遊んでみよう。
ちなみに、イ・ソンヒの思い出に次のような一説がある。
「(祖父は)田舎の家の裏庭にある竹で『洞箫(퉁소)』(尺八に似た笛)も直接作ってくれたし、クヌギの木で手作りで『ユッ』(小ちいさな丸い棒切れを割って作る四本一組の遊戯具)も切ってくれた。」
・・・ここでいう、「ユッ」は「ユンノリ」の「ユ」である。

さて、新大久保巡りのしめとして、家庭料理の店で、石焼き生三段バラ、ニラチヂミ、チャプチェなど旨い食事をした。腹いっぱいになって、おかげで、普段とは違ったいろいろな話をすることができた。急に教室が休みになったお蔭かもしれない。

2013年11月22日金曜日

顔の識別

元来、記憶力が良い方ではないが、女優の顔の識別ができなくなった最初は随分昔のこと。テレビコマーシャルなどで見るほどの関心でしかなかったのだが、「原田知世」と「石田ひかり」のお二人がだぶってしまい、どっちがどっちなのか・・・というほどに曖昧になってからだ。

その後、新しいタレントたちに興味もなく、始めから覚えようという気もしなかったところ、とうとう最近になって、AKBのメンバーが全く判別できない・・・というより、彼女たちの歌っている番組も見たことがないのだが。意図的に見ないのではない。見ようという気力がなく、意欲も湧いてこない。それを惜しいと思うこともなくなっている・・・。

ところで、AGF「ブレンディー」のスティック・コーヒーのCMに、秋の紅葉を背景に、大人と子どもの女性が語り合うものがある。(Youtubeに登録者へ感謝)
大人の味である「コーヒー」の「濃い」と「恋」を掛け合わせるのだが、ふんわりした間合いがいい。その大人の女性が、調べてみれば原田知世だった。CF全体のバランスをとるように、ひょうきんな終わらせ方も、彼女の清潔感と合っているようで面白い。

原田知世は、イ・ソンヒと歳の差が3歳なので、近頃の女優さんは若い。

2013年11月21日木曜日

2013年流行語大賞ノミネート

今年も流行語大賞の発表時期(12/2)になり、昨日、50語の候補が発表された。その中で、だいたい知っているもの(○)、聞いたことはあるが内容を知らないもの(△)、聞いたこともなく知らないもの(×)に分類したら次のようになった。
聞いたこともなく知らない流行語が多いのに驚く。若者言葉に関心ないからか、そもそも世間に疎くなったからか・・・過去に大賞になった言葉も忘れているし。

そんなこんなで、言葉の感度もあてにならないが、私としては<流行語>として、「今でしょ」を推してみたい気がする。

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○: だいたい知っている ・・・・・・・・・・・・・・・・・ 30
△: 聞いたことはあるが内容を知らない ・・・・・   3
×: 聞いたこともなく知らない ・・・・・・・・・・・・・ 17

○ PM2.5/   △ NISA(ニーサ)/   × 母さん助けて詐欺/   ○ 弾丸登山/   ○ 美文字/   ○ DJポリス/
× ななつ星/   ○ パズドラ/   ○ ビッグデータ/   × SNEP(スネップ)/   ○ ヘイトスピーチ/
△ さとり世代/   × ダークツーリズム/   △ ご当地電力/   ○ ご当地キャラ/   × こじらせ女子/
○ 富士山/   × 日傘男子/   × バカッター/   × 激おこぷんぷん丸/   × 困り顔メイク/
× 涙袋メイク/   ○ 倍返し/   ○ 今でしょ/   ○ ダイオウイカ/   ○ じぇじぇじぇ/   × あまロス/
○ ビッグダディ/   ○ ハダカの美奈子/   ○ ふなっしー/   ○ フライングゲット/   × マイナンバー/
○ NSC/   ○ アベノミクス/   ○ 3本の矢/   ○ 集団的自衛権/   ○ 特定秘密/   ○ 汚染水/
○ ブラック企業/   × 限定正社員/   ○ 追い出し部屋/   ○ ナチスの手口に学んだら/
○ ネット選挙/   × アホノミクス/   × 引いたら負け/   × 二刀流/   × スポーツの底力/
○ シライ/   ○ お・も・て・な・し/   ○ コントロールされている(under control)
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2013年11月20日水曜日

大衆音楽家に対する勲章

韓国の国内に限ってのはなし。文化体育観光部が選定する文化芸術賞の最高勲章に金冠文化勲章があるが、その他に銀冠文化勲章などがある。歌謡界に対する国の評価につながるとして、SBSニュースの記事「[取材ファイル] チョー・ヨンピルがなぜ銀冠文化勲章か?」(11/19、クォン・ジョンオ記者)は、次のように言及している。(抜粋)

(本ブログ関連:”勲章”、”韓国ギャラップ”)
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・・・今年は、現代美術の巨匠であるイ・ウファン画伯が金冠文化勲章を受賞しました。

・昨日、大衆文化芸術を導いた4人が銀冠文化勲章を受けました。「歌王」チョー・ヨンピル(63)、「喜劇界の大物」ク・ボンソ(87)、「国民俳優」アン・ソンギ(61)、「韓国最高のディーバ(歌姫)」パティ・キム(75)です。4人はこれ以上説明が必要ない大衆文化芸術界の巨木です。政府が彼らに銀冠文化勲章を授与したのは、それなりの原則と基準に基づいたものでしょう。それでもなぜか残念な気がするのは私だけではないでしょう。純粋芸術の側から、すでに多くの金冠文化勲章受賞者が出てきました。大衆芸術の中でも、映画側は故ユ・ヒョンモク監督とイム・グォンテク監督がこの勲章を受けました。しかし、大衆音楽家が最高等級の勲章を受けたことはまだ一度もありません。

・1979年​、世宗文化会館は、国内の大衆歌手に公演会場を貸さなかった反面、フランスのシャンソン歌手サルヴァトーレ・アダモには貸館を許して、大きな批判を受けたことがあります。20年が過ぎた後も、大衆音楽を軽視する風潮は大きく変わらなかったのです。
1989年には、パティ·キムの「デビュー30周年公演」が開かれることになるとすぐに、世宗文化会館諮問委員の2人が辞退したりもしました。「歌手の公演は、体育館でしなければならない」という、大衆歌謡に対する侮辱の発言まで出てきました。・・・

・・・これまで大衆音楽への貢献を考えると、チョー・ヨンピル、イ・ミジャ(2009年、銀冠文化勲章受賞)、パティ・キムは、金冠文化勲章を授与されても全く遜色がないというのが私だけでなく多くの人々の考えでしょう。特にこの中でも、「歌王」チョー・ヨンピルの場合には、異論の余地がないと思われます。40年超えて数多くの国民の愛唱曲を発表し、ジャンルを越えた優れた歌唱力を披露しました。
2008年、世論調査専門機関である<韓国ギャラップ>が、建国60周年を迎え、全国民の世論調査をしました。そのとき私たち国民が最も好む歌手でチョー・ヨンピルが25.7%の支持を得て1位、続いてイ·ミジャ(2位、17.7%)、パティ・キム(5位、6.6%)がつづきました。特に、チョー・ヨンピル氏は、今年発表した19集「ハロー(HELLO)」を介して前の世代とのコミュニケーション(疎通)が可能な新しい音楽を試みながら、大衆音楽界の新しい反響を導き出したし、還暦が過ぎた年齢でも絶え間ない努力とチャレンジ精神で、国民の手本となるに十分でした。・・・大衆音楽も文化の大きな軸です。大衆音楽、歌手に対する政府の前向きな認識の転換が必要なときです。      
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2013年11月19日火曜日

イ・ソンヒの「恋文」

週刊誌(週刊新潮)で、先月19日に作家の連城三紀彦氏が亡くなったと知った。直木賞受賞の「恋文」(1984年)に接したとき、文学音痴の私は、大人の恋愛小説といえば吉行淳之介のイメージしかないので、その延長で読んだ覚えがある。どちらかといえば、ラジオドラマにしていいような雰囲気で、ちょっと女性的な感じのする作品集だったと記憶する。

    (注)「恋文」が直木賞受賞した1984年、イ・ソンヒが江辺歌謡祭で大賞受賞して世に登場した。

イ・ソンヒに7集所収の「恋文(연서)」(1991年、作詞イ・ナムギ、作曲キム・ジンリョン)がある。こちらは、歌の主人公が想っているよりも、う~んと若い恋の歌だ。旋律の心地よさに何度かこのブログにとりあげた。

(本ブログ関連:”恋文”)

(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2013年11月18日月曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 晩秋

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/13)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第31回として、「晩秋(만추)」について紹介した。

まず、高麗時代末期の懶翁(나옹)禅師(1320年~1376年)の詩について、次のような紹介から始まった。
・「広大な畑が欄干の前に開けている。四季折々、きれいな風が玄琴(コムンゴ、거문고)の音を運んでくれる。ぎっしりと並び、風の意を受けて、その影が庭を掃いても、埃はそのままだ。」
澄んだ月の光に、庭に垂れ下がった竹の陰が風に揺れている様は、まるで庭を掃いているように見える。
・風が少し吹くだけで、紅葉が頭上から舞い落ちる。昔は、竹を編んだ箒で庭掃除をした。

▼ 「掃葉山房(소엽산방)」中の「トドゥリ(도드리)」を聴く。秋晴れのした、<落ち葉がたまった庭を掃く人が住む山の家>には、葉が揺るりと舞いつづける・・・ようだ。

次に、朝鮮時代の申光洙(신광수、1712年~1775年)の詩について、次のよう説明された。
・秋の月の光を見ると、どこか物悲しい中にも、心が洗われていくようだ。こうした、晩秋の趣を表現した曲の一つに「關山戎馬(クァンサンユンマ、관산융마)」ある。
「秋の川は寂寞とし、魚さえ寒い。人々は西風を受けながら、仲宣楼(チュンソン楼、중선루)に登っている」から始まるこの歌は、申光洙が、科挙試験の際に書いた詩「登岳陽樓歎關山戎馬(등악양루탄관산융마)」を元にしている。科挙試験で2位となったこの詩は、歌として現在に伝えられる。
・この申光洙の詩は、中国唐代の詩人杜甫が、洞庭湖を見渡す岳陽樓に登って書いた詩「登岳陽樓」をモチーフとしている。「登岳陽樓」に登場する、岳陽樓や洞庭湖は瀟湘八景に数えられ、絶景とされる名勝地だ。美しい風景を前に、感嘆よりも切ない思いが先走る。杜甫は、故郷での戦話を思い出し、心を痛めたという。

▼ 詩唱「関山戎馬」を聴く。杜甫「魚龍寂寞秋江冷」、申光洙「秋江寂寞魚龍冷」・・・寂寞の様を朗詠する。

最後に、「雉鷄米(チゲミ、치계미)」の宴について次の通り解説された。
・物悲しさと華やかさが共存する、短い秋が終わると、すぐ厳しい冬がくる。昔は、貧しい人や、体の弱い人に辛い季節だった。人々は冬を前に、村の年寄りを招き、養老の宴の「雉鷄米」を開いたという。
・雉鷄米は元々、地方長官に当たる使道(사또)に出されるおかず(賄賂の意)をいう。村の年寄りを、使道のように、接待しようとする意が込められている。貧しくて、雉鷄米に米一粒も出せない家は、「溝鍋(トランタン、도랑탕)」という鍋を出した。その名は、立冬の頃、ドジョウが冬眠のため、トランという細い溝に隠れるので、掘り返してドジョウを捕え、ドジョウ鍋を出したことに由来する。

▼ 「世界で最も美しいものたち(세상에서 아름다운 것들)」を聴く。秋の映像を想わせる・・・今様である。

旧石器時代の人骨

昨晩、NHK教育TVの「科学番組「サイエンスZERO」は、日本国内の旧石器時代の人骨発見について、新しい情報をもとに、次のように紹介した。先日の市民向け公開講座を聞いたばかりなので興味深かった。

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・日本は(火山灰による)酸性土壌が多く、旧石器時代の(リン酸カルシウムが主成分の)人骨は溶けて発見できないが、縄文時代の人骨は、(カルシウム成分が溶けた)アルカリ性の環境の貝塚で多数発見されている。
・ただし、沖縄県の港川(石灰石採石場で発見された、約1.8万年前の「港川人」)の人の骨格が旧石器時代のものとして、従来から知られている。
・また、沖縄地方を除いた旧石器時代の人骨は、静岡県の(石灰石採石場で発見された約1.8万年前の「浜北人」)が知られている。
・今回、沖縄県石垣島の新石垣空港の建設敷地内で発見された、旧石器時代の人の骨格で、国内最古の約2万年前とされ、その発掘現場が紹介された。
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時間のスケールを考えると、何かの結論を出すのは慎重でなければならないだろう。研究者の方が、事実を一つ一つ積み重ねていくという風に語っていた。考古学はサイエンスだと思う。

(本ブログ関連:”旧石器時代の野川流域から見る”)

2013年11月17日日曜日

地震が・・・

先週の日曜日(11/10)に地元で震度3であった地震(震源地:茨城県南部、震度5弱、地震規模M5.5)から、ほぼ一週間たった昨晩(11/16)にも地元で震度2の地震(震源地:千葉県北西部、震度4、地震規模M5.4)があり、今日に日を越えたばかりの真夜中00:50にも揺れが続いた。

地震は慣れるようで慣れるものではない。それが続けば次第にストレスがたまる。わずかな揺れでも、どう変化するか知れず、慌ててストーブの日を消す。万が一、ストーブの火をつけたまま家が倒壊したら、火のついた家屋の下敷きになったらと想像するだけでも恐ろしい。

どうして気にするのかといえば、本日00:50の千葉県北西部を震源とする地震(規模M4.2)により、地元の震度1にもかかわらず・・・2階の棚に立てかけた携帯ラジオが転がり落ちたのだ。置き方が微妙だったかもしれないけれど、何ともいやな予感がする。

震源の茨城県南部と千葉県北西部とは、素人に見当がつかないが、地質学的にどういう関係にあるのだろうか、別種の構造・メカニズムなのか、それとも同種なのか知りたいところだ。といって、それが分かったからどうなるものでもないが。

2013年11月16日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「4.頻繁な転校と、『病気っ子』といわれていた国民学校(小学校)時代」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第4回目をここに載せたい。感謝。
イ・ソンヒの小学生時代の音楽経験について、例えば学芸会的なこと、子供向け音楽コンクール公開放送への出場など・・・知りたかったことだ。それに可愛い片思いの話も。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[4] 頻繁な転校と、「病気っ子」といわれていた国民学校(小学校)時代
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1972年3月、私は(ソウルの)城北区新洞国民学校に入学した。戸籍上、6歳であったから他の人々より2年先に学習の道に入ったわけだが、その時の私の本当の年齢は9歳だったので、むしろ一年遅れたわけだ。とにかく、私にとって国民学校への進学は以後度重なる「転校」の開始だった。

    (注)年齢はすべて「数え年」

しばらく「留まった」学校でなく、それでも「在学」したと話せる学校を取り出せば、新洞、論峴、敦岩、梨泰院国民学校などだ。卒業証書を受けたところは、5年の2学期のときに転校した梨泰院国民学校だ。

    (注)イ・ソンヒは父親に従って「国民学校だけ六ヶ所を転々と移り渡った。」(第3回 参照)

私は国民学校の時も、やっぱり同年輩より体つきが小さかった。6年を通して背番号の1番は私の一人占めだった。背のせいで運動場の朝会のたびに、最前列で先生と向かい合い、緊張の中に立ち続けねばならなかった。

ニックネームも「ヤマコ(『ちびちゃん:コマヤ꼬마야』を逆に)」、「テチュッシ(ナツメの種 대추씨:小柄ながらたくましくがっちりしている)」、「ちび(ジュイバンウル 쥐방울:不釣合に小柄)」など超小型だった。6年生になっても大人(?)と見違えるほどの3年生の後輩たちに「や~、~(し)よう」調のぞんざいな言葉にあう侮辱を受けたりもした。

私は背中に背負われるのにとてもなじんだ。母に背負われて登下校する姿が気の毒に見えたのか、体の大きな子供たちが時おり私を背負ってくれたりもした。

幼い頃から体が虚弱な方だった私は、体育の時間になると教室に残ったり、運動場のかげに座ってじっと見守ったりした。先生や友達に最初から「病気っ子」とつけられた私は、休みのたびに田舎で飛び回りながら体力を固めた後でも依然として、「病気の人、手をあげなさい」といえば、「この子で~す」と子供たちに指摘される「慢性患者」になってしまった。体操着に着替えるのもわずらわしいので、とても幸いなことだった。

しかし、よくある軽い病気がちでなく、どうして私が「病気っ子」であることを認めることができるだろうか。私は風邪が流行するたびに、一度も罹らずうつったことがなかった。また、病名は忘れたがかなり深刻な病気にかかった時もあった。国民学校4年生の時だったか、学校で手配してくれた病院でかなり長い間、通院治療を受けたことが思い起こされる。

私は3年生の時、およそ6ヶ月間、ガールスカウトで活動したことがある。

野営生活などを通じて心身を健全にできる良い機会であるとを何度も強調して、両親から入団の承諾を受けたが、内心目的は他の所にあった。

私が目指したのは、隣りのクラスの格好いいボーイスカウト隊員だった。女の子に人気が高かったあの子と自然に親しくなることができる方法は、私がブラウニー(Brownie:ガールスカウトの小学校低学年に相当の部門)になる道だけだった。ボーイ、ガールスカウトの合同集会などを通じて、ある程度その子と近づいたと満足していた頃、その少年はある日突然転校してしまったし、私の「第1の目標」が視野から消えたので、何の未練なく幼女隊(ブラウニー)を脱退した。

私は国民学校の時から、歌だけはどこの誰にも引けをとらなかったと自負する。

どんな場所でも歌を歌えといわれれば、遠慮したりとか、後の方をはずすことが一度もなかった。 かえって、「歌を歌うに値する場所はないのか」といいながら、ここかしこをのぞき込むほどだった。

いつだったか、国語の教科書に出てくる「森の鍛冶屋」という演劇をしたことがあった。各クラスを回っていた一種の「巡演」であったが、私が引き受けた配役は「スズメ」であった。理由はただ一つ。スズメ役の台詞部分が歌になっていたためだ

一人でも歌うことができる歌、二人でも歌うことができる歌、多数がまじり合っても歌うことができる歌、そして歌が私になり、私が歌になる歌... 私はいつもそのような歌を歌いたかった。

「イ・ソンヒは歌が上手だ」といううわさは全校に広がったし、ある日、担任の先生がTV子供童謡大会に参加してみることを薦められた。それは4年生の時だ

私は、「森の中の鍛冶屋」の演劇公演で「スズメ」に扮装して歌ったまさにその歌を歌って、KBS TV の(公開放送)「誰が誰がお上手か(누가누가 잘하나)」の1次予選を軽く通過した。

自信を得た私は、2次予選では歌の小節小節ごとに「雰囲気(멋)」をいっぱい入れて歌った。結果は脱落だった。私は今でもその時、情熱をつくして「童謡らしく」歌ったと信じる。国民学生があたかも「子おとな」のように童謡を歌謡調で歌って審査委員を当惑させたという話も聞いたが、私の胸の内はそうでなかった。もう少し上手くしようと、自ら「技巧」を働かせただけだった。とにかく当時の「予選脱落」は、私にとって大切な経験だった。「二度と上っ面だけのふりはしないだろう」。
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2013年11月15日金曜日

イ・ソンヒの「なくしてしまった約束」

今となっては古風な曲調であるが、イ・ソンヒの3集に収められた1曲目の「なくしてしまった約束(잃어버린 약속)」(1986年)は、デビュー2年目の若さ溢れた彼女らしい張りのある声で力強く歌う。

秋に葉が落ちるのを見て、ふと気付くのが人生なんでしょうね・・・寒さが一層つのります。


なくしてしまった  その約束を  ふたたび探せるなら
消えてしまった  愛の花火を  すべて燃やせても

再会の  ちぎりもなく  私たちはそんなに背を向けて
今日も  懐かしさに  胸を焦がしてこの夜を明かす

愛  それは第二の生命(いのち) 誰にも与えられないもの

ただ  あなたにだけに与えたいもの  そして受けたいもの


(Youtubeに登録のsun5054に感謝)

2013年11月14日木曜日

頭痛薬

風邪のせいか、気圧の変化のせいか、頭がズキズキする。鎮痛剤を飲めばすぐに治まるのに、このときばかりなぜか、やせ我慢する。そして、耐え切れなくなって棚から薬を探し出すことになる。

飲むのは頭痛薬の「ノーシン」だ。それも、昔からの散剤(紙に包んだ粉末薬)である。同じノーシンでも錠剤の方はダメなのだ。わが家の常備薬であった散剤の方でなければ効かない。分かっているが、多分に心理的な効果もあってのことだろう。

ここ数日の寒さは、「12月上旬から下旬並み」という。まるで、映画「デイ・アフター・トゥモロー(The Day After Tomorrow)」のように、飛行中のヘリコプターにいっきに氷が張り付くような厳しさを想像する。慣れれば別だろうが、まだ「しばれる」感じだ。

NHKとBBCが共同制作した、自然ドキュメント番組「フローズン・プラネット」で、南極の浅海に氷柱ができ、それがやがて海底を這う現象である「Brinicle(ブライニクル)」(「死のつらら」)を見たことがある。ヒトデなど海底生物が氷漬けされていくさまは、見ているだけで恐ろしい。氷漬けされたら、頭がジンジンしてきつかったことだろうと思った。(ところで、棘皮動物のヒトデには頭はないようだ)

2013年11月13日水曜日

イ・ソンヒの「ピーターパン」を見た思い出(ソヌジョンア)

イ・ソンヒは数々のミュージカル舞台に立ったことがある。「オズの魔法使い」(1990年)の主人公ドロシーや、「ピーターパン」(1991年)の主人公ピーターパンなどを演じた。子どもの頃に母親と一緒にその舞台を見たという、女性シンガーソングライターのソヌジョンア(28、선우정아)とのインタビューが、ブログに掲載されている。中央日報のイ・ギョンヒ記者が、同紙の記事から溢れた内容をブログに書き記したものである。

(本ブログ関連:”ミュージカル”)

ソヌジョンアについては上記ブログで知ったわけだが、ここでは彼女がイ・ソンヒについて語っている部分だけ次の通り抜き書きする。感謝。
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7才の時、「ピーターパン」のミュージカルを見た。世宗文化会館の大劇場にそうそうたる人々が出演した。イ・ソンヒがピーターパン(役)だった。母に、「ピーターパンは男性なのに、なぜ女性がするの?」と尋ねたところ、イ・ソンヒファンだった母は、「韓国で歌が最も上手な方だからなのよ」とファンの心いっぱいの答えをした。衝撃だった。どんなに達者に男性を追い抜いて、男性の役ができるかと思って。ワイヤーに乗って飛び回るのも素晴らしかったし、私もあの人たちのように音楽の中で生きたいと考えた。おもしろいことに、この前イ・ソンヒさんから連絡が入った。私のアルバムを聞いてみて、おもしろいとフィードバックをくださったのだ。普通は、音楽を聞いて連絡する方が多かったが、私に妖精と同じ、この世の人とは感じられない方であったが・・・電話を受けると正気でおられなかったよ。
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2013年11月12日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 オンドル

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/6)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第30回として、床下暖房の「オンドル(溫突、온돌)」について紹介した。

まず始めに、寒い冬に床下から部屋を暖めるオンドルについて次のように紹介した。
・11月に入り急に朝の空気が冷え、本格的な冬を思う・・・明日(11/7)は冬の始まり「立冬」だ。零下20度近く下がる極寒の冬が来る。
・この時期、韓国ではオンドルが重宝される。最近は床が均一に温まるが、昔は火元に近い床の「アレッモク(아랫목)」が、家中で一番温かい場所だった。昔の田舎では、飯を遅くにも温かく食べられるよう、ふた付き鉄製の器に入れ、アレッモクに敷いた布団の中で保温した。また明け方に冷めた床を暖めるため、おばあさんが早朝火を入れる光景も見られた。人々は、こうした温かい部屋で二日ほど休むと「これまでの積み重なる疲れも飛んでいく」とよく言う。

▼ 家の敷地を司る、成造神を称える南道民謡「城主祭歌(성주풀이)」を聴く。新築、転居のとき、家族のために巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)を呼んで祓った際の歌が起源という。張りよくテンポよく聞こえる・・・Youtubeでイ・ソンヒは民謡三曲のニ番目で勢いよく歌っている。

次に、オンドルの構造と歴史、普及に関わった木こり歌について次のように解説された。
・韓国固有のオンドルは、料理の火を利用して室内まで温める実用的な暖房器具と言える。焚口から、煙突まで、熱い煙が通る道を作り、その上にオンドルの石を並べる。オンドルの初期、4世紀頃は、室内に並べた石は二列ほどで、部屋全体を暖める方式ではなかった。高麗時代に入り、部屋全体を暖める本格的なオンドルになった。
古くは、垂れ幕のあるベッドや椅子を用い、部屋の中でも靴を履いた生活だったが、オンドルで、韓国人の生活が変わった。17世紀、世界的に急激に寒さが厳しくなったといわれ、韓国中にオンドルが広まった。家々で火を焚くため、木の枝が大量に必要となり、木こりたちは厳しく寒い山中に、薪集めに行った。こうしたハン(恨)が込められた木こりの歌が多く残されている。

▼ 慶尚北道の木こりたちが木を切りながら歌った「オサヨン(어사용)」を聴く。歌声から労働の場面を想像して・・・どのような地形で、何の木を、どんな道具で、独り或いは仲間と切ったのか気になる・・・それにしても、厳しい思いがこもる歌だ、独り歌だろうか。

最後に、七佛寺の亜字房のオンドルと、今なお続くオンドルについて次のように説明された。
・オンドルの機能を果たすため、石の配置など知恵が必要だ。慶尚南道の河東地域にある七佛寺(칠불사)に亜字房(아자방)の部屋がある。亜字房は石の並びが「亜」の字に配列した、一度火を入れると100日間も温もりが残ったと伝えられる。
・近年の100年余り、生活や文化が洋風化する中、伝統を守っているのがまさにオンドルだ。家族がひとつの部屋に集まり、ぴったりくっついて温まった、そんな古き時代のよき思い出を、体で覚えているからだろうか。

▼ 済州島に伝わる子守唄「ウォンイチャラン(웡이자랑)」を聴く。家族の温もり・・・う~ん、今様の「島の赤ん坊(섬집아기)」などとは随分違うけど、子どもには母や祖母の声と「手の温もり」が一番なんですね。なるほど。

2013年11月11日月曜日

東京地方、木枯らし1号

昼間は陽射しが穏やかだったというに、午後も夕方に近づく頃、気付けば窓の外は土砂降りで、止んだと思えば今度は急速に冷え込んできた。足がじんじんと冷える・・・家路も寒さは尋常でなく、まさに冬到来を思わせる。

帰宅して、Googleニュースを見ても、東京地方に木枯らし1号が来たという情報はない。唯一、テレ朝ニュースのコメントに、「東京では11日夕方以降、北寄りの風が強まり、木枯らし1号となるかもしれません。」とあるのみだ。

体感は、まさに木枯らし1号といってよく・・・それほどの冷え込みと風の強さだったのだ。

ちなみにネットには、「東京地方の木枯らし1号」(気象庁天気相談所)の記録があって、昭和26年以降の木枯らし1号到来日を一覧することができる。過去10年間について、ざっと見渡せば次の通り・・・今日あたり、わるくないと思う。
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2003(平15) 11月17日
2004(平16) 11月13日
2005(平17) 11月12日
2006(平18) 11月12日
2007(平19) 11月18日
2008(平20) 11月01日
2009(平21) 11月02日
2010(平22) 10月26日
2011(平23) 10月26日
2012(平24) 11月18日
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やっぱり、木枯らしだった。

時事通信の記事「東京でも木枯らし1号=昨年より7日早く-気象庁」(11/11、19:33)は、次のように木枯らしが到来したと報じた。(明日は冬物の衣服が必要らしい)
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気象庁は11日午後、東京地方で木枯らし1号が吹いたと発表した。昨年より7日早い。
同庁によると、午後2時54分に最大瞬間風速17.9メートルを記録した。近畿地方では昨年より6日遅い4日に1号が吹いた。
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(本ブログ関連:”木枯らし”)

2013年11月10日日曜日

旧石器時代の野川流域から見る

(後期)旧石器時代に地元野川流域に残された石器や黒曜石を通して、日本人類の起源を語る講演があり聴講した。講演タイトルは、「旧石器時代の日本列島 - 野川流域から日本人類史の起源を考える」で、講師は安蒜政雄(あんびるまさお)明治大学教授である。

6万年前にアフリカから世界に拡散した私たちの祖先は、4~3万年前に日本列島に至ったといわれていることから、野川流域の旧石器人(3.5万年前~1.5万年前までの間)は相当に古いひとびとといえるようだ。

この4万年前(日本列島到着)と3.5万年前(野川流域定着)を比べると、5,000年の差しかないように考えてしまうが、つまり私たちの2,000年の歴史と比べて時間オーダーが極端に大きな時の流れであり、しかも証拠は石器しかない。いろいろとイメージが膨らんでしまい、素人には楽しいことだが。

関東地方を含めて日本は火山国のため、旧石器時代の証拠物は石器しか残ってない。他の有機物は火山灰地により一切溶けてしまっている。そんな中で、石器が見つかった地層に依ったり、石器の分布に依ったりして、旧石器時代の集落や人口の規模を想定されるという・・・ただし、生活や移動がどうであったか検証が必要。
また、産地がある程度限定される石材の黒曜石の地域間移動が分かっており、ひとびとの交流が想像されるという。さらに、野川流域の石器(石斧)、黒曜石を使った複数の特性から、他の周辺地域と比べて日本独自の性格を持っているという。

発見された遺物から歴史上の想定が語られたが・・・最後にいろいろな視点や解釈も含めて、会場とのQAがあった。
それらを聞いて、確かに2,000年前の歴史でさえ物証は完全ではないのに、旧石器時代の石斧など限られた遺物から、3.5万年前~1.5万年前までの2万年の間の歴史を語るのは容易なことではないだろうと感じた。

歴史は時間だけでなく、空間の流れでもある。会場で求めた、安蒜政雄氏の著書「旧石器時代の知恵」を読んで復習してみよう。

常々思うことがある。歴史の中で個人は小さいけれど、仮に4万年前の私の祖先が子孫を残す前に、何かのことで亡くなっていたら、私は今いないのだ。命は連鎖する。それも際どい偶然のおかげで。

2013年11月9日土曜日

(資料)一乗宗

▼ Daum知識(2006.2.2)のQAに、韓国仏教宗派の質問中に「一乗宗」について次のような回答がある・・・この記述は、K-Wikipediaにリンクされている。
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25.大韓仏教一乗宗
韓国の法華信仰系統仏教宗団。
1968年2月 法華宗で崔恵正が一乗宗団を創設。
1969年1月 大韓仏教一乗宗布教院で文化公報部に仏教団体登録。
1973年 大韓仏教一乗宗に改称。「妙法蓮華経の会三帰一思想と大乗菩薩行をそれぞれ『体』と『用』として国を守って広く衆生を済度する」を宗旨としている。
所依経典は<妙法蓮華經>で、本尊仏は釈迦牟尼仏。
本寺は、ソウル特別市城北区城北洞にあって、宗正は権梵虎だ。
教勢は、1988年現在、寺院455ヶ所、僧侶536人、信徒16万3,332人。
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▼ (次のソースは過激なため要注意!・・これについて未だ確証を得ていない)
仏教と巫俗の習合という観点から、一乗宗と巫堂(ムーダン、무당:シャーマン)の関係について批判的なコメントがある。(アンチニュース

一乗宗 自身によるによる巫堂(무당)についての解説。
http://www.ilseung.or.kr/bbs/board.php?bo_table=qna&wr_id=70&page=3


(本ブログ関連:”一乗宗”)

2013年11月8日金曜日

イ・ソンヒの「冬哀傷」

名曲とは不思議なもので、イ・ソンヒの「Jへ」は作者がその曲の扱いに苦悶していたときに偶然出会ったことによるし、また5集所収の「冬哀傷(겨울 애상)」(作詞:キム・ヨイル作曲:ソン・シヒョン、1989年)は思いもかけないかたちでできあがったものだ。

(本ブログ関連:”冬哀傷”)

この時期になると、美しく透明感のある「冬哀傷」の余韻にひたりたくなる。

星明かりに澄み映える  私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら  飛び去る  空を  見る

懐かしさ雪のように積もり  丘を転がり超えて
青い月明かり  降り注ぐ  私の空っぽの  庭に

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿

風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿
凍ってしまった悲しい後姿

(Youtubeに登録のKnightmareに感謝)

2013年11月7日木曜日

立冬2013

今日は立冬、暦上、秋分(9/23)と冬至(12/22)の真ん中で、いよいよ冬の始まりである。といって、木枯らしが吹くでもない。(ただし近畿地方では、今月4日に1号が吹いた)
暦に知る季節なわけで、実感が伴わない・・・と思ったら、Weathernewsの天気予報(ピンポイント天気)で、当地辺りも明日以降、木枯らしの可能性があるという。なんだ、冬はすぐそこに来ている。

ところで本日午後1時14分(日本時間)、カザフスタンのバイコヌール宇宙基地からソユーズTMA-11M宇宙船に乗り、JAXAの若田光一宇宙飛行士(50)が、国際宇宙ステーション(ISS)に向けて飛び立つ。来年の5月14日頃まで、約6ヶ月のISS滞在とのこと。

JAXAの「ISS第38次/第39次長期滞在概要」に次のように説明がある。
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・第38次/第39次長期滞在クルーとしてISSに長期滞在します。
・若田宇宙飛行士は、第38次長期滞在ではフライトエンジニアとして、ISSの運用、「きぼう」日本実験棟を含むISS各施設のシステム運用、日本および国際パートナーの科学実験をはじめとする宇宙環境の利用に重点をおいた活動などをISSで行います。
・滞在の後半となる第39次長期滞在では日本人初のコマンダー(船長)として、滞在期間中の指揮をとることになります。
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(本ブログ関連:”若田光一”)

2013年11月6日水曜日

発泡にごり酒

先日、寝つきが悪くて、深夜に冷蔵庫の日本酒をお猪口一杯飲んでみたら、意外やぐっすりと眠れた。そうれなら、口当たりのよい日本酒はないものかと近所の酒店を訪れた。

店のガラス張りの冷蔵庫に、日本酒の発泡酒(「神亀純米活性にごり酒」)が見えた。ドア越しにラベルの注意書きを観察すると、詮を開ける際に勢いよく発泡するので開詮を微妙に繰り返し、噴出しに注意するよう書かれていた。面白そう、ということで購入し、家に戻るや早速開詮してみた。

詮をゆるりと開けると、瓶の中を泡が口元まで駆け上がってくる。あわてて詮を強く閉め直す。発泡が治まるまで、それを繰り返して、ようやくお猪口に注ぐことができた。結構手間取る。

元来、酒は強くない。飲兵衛でもない。だから、ほどほどにたしなむ程度なのに、発泡の様子が面白くて、口当たりもよいので立て続けに3杯も飲んでしまった。酔いが次第に廻り、ふらふらしてきた。耳元を血流がドクドク音を立てる、腕が妙にピリピリしてきた・・・ああ、こりやいかん・・・すっかり酔っ払ってしまった。

2013年11月5日火曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 菊花

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/30)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズの第29回として、菊の花(국화)について紹介した。

始めに、秋の花の菊とそれに関わる詩について、次のような紹介から始まった。
・花というと春を思い浮かべるが、秋にも春に劣らず、きれいに咲く花がある。コスモスを筆頭に、オシロイバナや野菊、そして名も知らぬ花たちが力強く花を咲かせ、散った後、目に入るのが菊の花だ。朝鮮後期、李鼎輔(イ・ジョンボ、이정보、1693年~1766年)が残した、菊の登場する次の時調시조)がある。

「菊よ、おまえは、三月の春の風(東風)を過ぎ、/  落木寒天にひとり花を咲かせたのか、/  おそらく、霜が降りる季節に屈しないのはおまえだけだろう。」

・「落木寒天」は、木の葉が落ち、寒くわびしい冬の風景を表す。この時調は、暖かい春の風が吹いても花を咲かせず、寒い冬になるまで待って、さびしそうに、けれど力強く咲く菊の花を歌う。

▼ 平時調(평시조)の「菊よ(국화야)」を聴く。上記詩の一音一音を延ばし朗詠する。夕陽を逆光に揺れる野菊のよう。

次に、李鼎輔の仕事と彼にまつわる逸話が、次のように語られた。
・李鼎輔は、詞のように相手が王であれ、間違ったことには果敢に言上する政治家だったという。
・一方で、音楽にも造詣が深く、上記時調以外に80編を超える作品を残し、音楽家養成にも携わった。弟子に、桂纖(ケソム、계섬)がいた。彼女は、幼くして両親を亡くし奴婢となったが、李鼎輔と出会い、彼を師匠として歌を学ぶ。彼は桂纖の才を見抜き、常に傍に置き指導した。彼女は名唱として名を轟かした。李鼎輔が世を去ったとき、桂纖は実の父の死を前にしたかのようだった。その後毎日、師匠の墓前で泣きながら歌い続け、生涯かけて恩返した。その姿は、晩秋の道端に咲く野菊のようだ。

▼ 新民謡「野菊(들국화)」を聴く。なんだか、野に咲くの花の陽気で力強さを感じる。

最後に、菊を愛でる優雅な光景について、次のように語られた。
・昔から、ソンビ(博識な学者)たちは、菊を、梅、蘭、竹と共に並べ、四君子と呼ぶ。これらは、操と節義を象徴する花とされ、広く好まれ、植えられた。フンタリョン(흥타령)の歌詞に、四君子のひとつ、菊に関する次の一節がある。

「窓の外に菊を植え、菊の下で酒を醸しておいた。/ 酒が熟成し、菊の花が咲き、友人が来て、月が昇った。/ それ、コムンゴを一曲弾け、夜が明けるまで遊ぼうではないか。」

・花もきれいに咲き、さらにその香りまで漂い、友を誘って一杯傾ける光景、なかなか粋である。菊の酒をゆったりと嗜みながら、あれこれ話をする時間、これこそ、至福のひと時と言えるかもしれない。

▼ 「歌詞 勧酒歌(가사 권주가)」を聴く。揺ったりと古色を漂わせるが・・・どこか新酒の香りする。

2013年11月4日月曜日

菊の花

秋の花に菊がある。鑑賞に、一輪もあれば、束ねたものもある。あるいは、更に集めて加工したものもある。歳をとると、それぞれに美しさを気付くようになる。

子どもの頃、連れられて菊人形展を眺めたけれど、小さな菊の花弁を衣装代わりに身に包んで置かれただけの人形を間近に見て、拍子抜けした記憶がある。大人になれば、菊人形師の努力と期待も合わせてうかがえ受容できるようになる。たぶん鑑賞の視野が広がったのだろう。

イ・ソンヒのアルバム9集の一曲目にアルバムタイトルでもある「一輪菊(한송이 국화)」(作詞チェ・ユジョン、作曲ヤン・ムンソン、1994年)がある。群れて咲く野菊とは別に、一輪の菊にも独特の美しさがある。

    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    華やかな姿なくとも  素朴な香りに染まるように
    小さな花瓶の中で一輪の菊  この世の憂いを洗ってくれる
    黄色い花びら差し出した顔  ささやくように愛を語るよ
    一輪の野菊見やれば、貴方の姿を見るよう
    華やかな姿なくとも  素朴な香りに染まるように
    あ~

(本ブログ関連:”一輪菊”)

(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)

2013年11月3日日曜日

日光鉱山

さすがに11月ともなれば、早朝は冷える。栃木県塩谷郡塩谷町にある日光鉱山へ鉱物採集に出かけるため、始発電車に間に合うよう家を出ると、あたりはまだ暗い。
いつもお世話になっているH氏と待ち合わせの駅に着いた頃は、空も白みはじめていた。さっそく、H氏の車に同乗させていただき現地に向けて出発する。

昨日ネットで収集した産地情報を片手に、車中で鉱物談義する。H氏は、既に日光鉱山の鉱物採集は経験済みで、今回は何としても美しい二次鉱物の斜開銅鉱(Clinoclase、Cu3AsO4(OH)3)を目玉にされている。わたしも、斜開銅鉱に出会えればと、期待が膨らむ。

さて、下流に石積みの砂防ダムを何重にも構築している大きく広がった沢と重なっている、日光鉱山の【南側】ズリから採集を始めた。陽差しが反射してまぶしい。目が肥えてくると、次々いろいろな鉱物が見えてきた。
沢伝いに登ると、せばまった沢の奥には鉄条網にさえぎられて立ち入り禁止になっている。その奥には、ふさがれた坑口や、更に奥に進む沢も見えるが・・・ここまで。この境界辺りでの採集は、極めて残念な結果だった。

いったん道路に戻って【北側】に少し歩み、新たな入り口から山道を登り、斜面の上側に坑口が見える所まで進む。坑口はふさがれていないが、当然ながら覗き見するだけ・・・なにしろ、坑口付近には落盤跡?のような岩が見えるのだから。

以上の結果、採集鉱物は次の通り。
・南側採集地: 黄銅鉱、黄鉄鉱、ブロシャン銅鉱、孔雀石、輝銅鉱、方鉛鉱、閃亜鉛鉱、水晶(小型の美群晶)
・北側採集地: 斜開銅鉱(小片)

日光鉱山の行きも帰りも、国道・県道利用で通したが、休日にもかかわらず渋滞に巻き込まれることはなかった。

2013年11月2日土曜日

日暮れの早いこと、一年の早いこと

夕方というに、ちょいと気を許せば、外はすっかり闇に沈んでいる。帰宅にせわしい街の雑踏も、かえって落ち着きを増すよう。けれども、駅から離れて家路になれば、次第に人影の薄れるのが寂しい。風でも吹けば、否応なしに年末へと押しやられる。

テレビ・ショッピングで、おせち料理の予約受付で豪華?な詰め合わせを説明していた。ハロウィンが終ったと思ったら、あっさり場面転換して、クリスマスそして正月の行事が待っている。

ラジオで聞いたことだが、今年は3連休が多いんだそうだ。10回もあるという。休みが多いからって、それもなんだか・・・気ぜわしいなあ、何かしなければという強迫観念に駆られて、むやみに出かけるのもなあ・・・。

といいながらも、お呼びがかかった石採りに・・・幸い、明日は天気がよいようだ。

2013年11月1日金曜日

VESPA APE50

昔、雑誌に小型自動車の特集記事があって、戦後近くに生まれたさまざまな小型自動車を紹介していた。面白くて興味がそそられ、乗ってみたい気がした。記事を切り取って保存したが、今探してみると見当たらない・・・残念なことをした。

    (注) 小型車といっても、これから普及が試行される「超小型電気自動車」のことではない。

ネットを探してみれば、Wikipediaの「バブルカー」の項に、製造各社の小型自動車の写真が載っている。ヨーロッパで、戦後荒廃した中から生まれた、かつての航空機の技術者たちが関わっている。「バブル」とは、「航空機などの操縦席(コックピット)の風よけの覆い」で・・・つまり「風防」のことで、自動車の運転席の覆いがそれを想わせる構造をしている・・・ということだ。

これらの小型車の中で、わたしのお気に入りは、メッサーシュミット社のKR200(191cc)だ。まさに、航空機に関わった技術者の心意気が感じられる。

そういえば、後発日本のスバル360(360cc)も小型車に属するだろう。製造元の富士重工は旧中島飛行機という航空機メーカーだったわけだし。

今日、イタリア大好きな鉱物仲間から、イタリアのピアッジオVESPA APE50(49.77cc)という小型三輪車を、再生しているという話を聞かせてもらった。1964年に日本に輸入された5台の内の一台だそうで、構造図、配線図などの図面をネット上で探し、一部部品から作って、組み立て直しているというのだ。

    (注) Youtubeの「APE50」(新型のよう)、旧型は2サイクル単気筒50ccだが排気音がいい。(登録者Paulo Cabralに感謝)   赤字訂正
    (注) VESPA APE50が輸入された1964年といえば、イ・ソンヒが生まれた年でもある。
    (注) VESPA APE50は、スクーターのVESPAのエンジンそのままに、車体だけ発展させたもののようだ。

この三輪車、バッテリーがないそうで、スターターは手動、ワイパーは足動というまさにアナログカーである。聞いているだけで楽しくなる。・・・でも、それ以上の技術的なことになると素人の悲しさ、よく分からない、残念。

三輪車といえば、日本のダイハツ・ミゼットD型(250cc)があるが、これも小型車の仲間に入れることにしよう。

2013年10月31日木曜日

残った林檎は6分の1

月の銀の林檎、太陽の黄金の林檎、永遠に摘むことはできないけれど、わが家の台所では冷蔵庫の中で冷たいリンゴが待っている。皮が硬くてちょっと酸っぱいが、サクッと丸かじりすると口中に果汁がほとばしる。

林檎一個を一年に見たてて、芯を通して縦に6等分に切ると、今年は残すところ6分の1しかないことに気付く。あっという間の一年だったな。ゆっくり賞味したろうか、がつがつ貪ったろうか・・・月や太陽に値するというのに、もったいないことをした。

今宵、たそがれにさまよう悪霊、死霊たちが一暴れするかもしれないけど、でも新しい年を迎えられるならしかたないのだが、林檎はまだ6分の1残っている。そう6分の1も残っているのだ。

リンゴをかみしめながら、イ・ソンヒの13集所収の「リンゴの木の下で(사과나무 아래서)」(2005年)を聴こう。リンゴの味は、甘いのか、酸っぱいのか、それとも苦いのか。

(本ブログ関連;”イ・ソンヒの「リンゴの木の下で」”)

(Youtubeに登録のKnightmareSMに感謝)

なぜハロウィン

この時期、ハロウィンがメディアにとりあげられるたび、置き場がないというか落ち着き場所の定まらぬ感覚にとらわれる。人生長いと、様々な行事が次第に既定になっていくのを見てきたが、異質さに馴染むのはなかなか容易でない。若ければあっさり受容してしまうのかもしれないが。

ハロウィンは現在、あくまでも商業的なイベントを超えていない。多分、お盆のような宗教的なものと結びつくことがあるわけではないので、風習になるには時間がかかるだろう。その意味で、クリスマスは家族の結びつきを確かめる最早風習に近い。そして、義理を含めてバレンタインはハロウィンより先行している。

ハロウィンのちょっとおどろおどろした雰囲気を知ったのは、米国のブラッドベリ(Ray Bradbury, 1920年8月22日~2012年6月5日)のSFファンタジーの短編集を読んでからのことだ。その頃は、日本でのハロウィンはまだ文字の世界で語られたものだったはず。映画などで見る光景ではあったので、全く知らないわけでもなかった。

(本ブログ関連:”ハロウィン”)

だから、ハロウィンに強い拒絶感はないけれど、ちょっと気になる点がある。ハロウィンのデコレーションに使われる小物もそうだが、全体的な色彩のトーンとして、あのオレンジ色はどうだろう。日本の色使いではないと思うが。
とはいえ、わたしたちの色彩感覚もだいぶ変わってしまっている。そう、アウトドア用品やその衣料品を見れば分かるが、深緑色や青紫色などがすっかり定着してきている。アメリカ発の色彩感覚がそのままとりいれられている。