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2013年11月30日土曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「6.キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第6回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、高3のときに巡り合った音楽上の幸運、チャン・ウクチョ音楽室、作曲家イ・セゴンとの出会い、仁川専門大のときに音楽環境を整えようとした武勇伝、音楽サークル<4>(四幕五場)への参加、そしてMBC「江辺歌謡祭」への準備などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[6] キリギリスのように歌いながら高3の熱い夏を・・・
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(父親の意向で)絵を描けないことになると、しばらく疎(おろそ)かにした歌がやりたかった。喉(声帯)がうずうずした。普段なにげなく通り過ぎた音楽学院の看板が、突然両の目に入ってきた。

その音楽学院は、当時ソウル駅と三角地(삼각지)の間に位置していた「チャン・ウクチョ(장욱조)組音楽室」だった

    (注)本ブログ関連:”チャン・ウクチョ音楽室

音楽室の門を叩いたが、職業歌手や芸能人になるという考えは夢にもなかった。事実、私は高等学校を卒業する時までも、友人が芸能界のスターを偶像のごとく崇拝する姿をまったく理解することができなかった。

いずれにせよ、「一度、思う存分歌でも歌ってみようかな」という、私心ない気持ちでチャン・ウクチョ音楽室に出入りし始めた。それが高3の時だ。

他の人びとは「高3病」(ストレス)だ。「入試地獄」といって盛んに「大学受験との戦争」に没頭している時、私は絵を描けないので、歌を歌おうと打って出たので、完全に「くそ度胸」だったわけだ。 率直にいって、大学に行きたい気持ちがあまりなかったし。

音楽室に出入りしたりしたが、正式に登録してレッスンを受けたわけではない。「芸能人になろうと決心したのか」と、それこそ目をむいて反対する家で、どうしてあえて受講料をもらうことができようか。私に金を儲ける能力があったわけでもなく。

世の中に無料がどこかにあるだろうけれど、私の歌の実力が音楽室でも受け入れられたし、一種の奨学生同様の待遇を受けることになる破格の経験をした。

チャン・ウクチョ音楽室に入って、歌を歌ってみたいと話すと、当時あまり名が知られなかった作曲家のイ・セゴン(이세건)、ソン・ジュホ(송주호)氏などが「一度、見せてください」と冷ややかな反応を見せた

私が全情熱を傾けて、ニール・セダカ(Neil Sedaka)の「きみこそすべて(You Mean Everything to Me)」(1960年)を終わらせた時、その方々は非常に満足な表情であったし、したがって私はいつでも喉が「うずうず」したら、音楽室に立ち寄るようになった。

1984年に(江辺歌謡祭で)、私に大賞の栄光をもたらし遭遇したのもまさにここだった。

実力は優れていたが、単に無名の新人という理由だけで、作曲家のイ・セゴン氏は、数多くの歌手に無視されなければならなかったし、心血を注いで書いたものは危うく永遠に、「J~、私はあなたを忘れた・・・」という、残念な思いをするところだったのだ。

    (注)本ブログ関連:”イ・セゴンと「Jへ」

家中の激しい反対を押し切って、時たまではあるが、音楽室で気が晴れるまで歌を歌うことができたのは、高3の時期、両親と「生き別れ(親離れ)」をしたおかげが大きかった。

父の所属寺院が(ソウルの南の)城南にある寺に変わったが、それでも高3の私を転校させるには大学入試が気にかかったようだ。

それで、私は祖母と三人の歳下のきょうだい達と共に、ソウルの梨泰院の家で「準-少女家長」の役をして生きなければならなかった。

    (注)イ・ソンヒは長女で歳下に弟がいることは知っていたが、更に2人のきょうだい(男女?)がいる。

遊んでばかりいた子どもも高3になれば、慌てて入試勉強に没頭するのが常なのに、なぜか私だけは万事泰平だった。

そのとき、私の心は、イソップ寓話に出てくる「アリ(蟻)」よりも「キリギリス」の側に傾いていたようだ。だから、友達が夏の間、アリのよう熱心に教科書と格闘したときに、私はキリギリスのように歌いながら暑い夏を涼しくおくった。

学校の成績は、「正直」にもどんどん下に落ちた。しかし、心配もなかった。大学というところに対する羨望はそもそもなかったから。

▼ 「私は大学に行かないつもりだ」という話を両親の前でも大っぴらに言い放ったりしたからか、84年度の3月、仁川専門大(인천전문대)環境管理学科に合格しても、父は私が果たして滞りなくやっていくことができるかについて、まったく信じられなかったようだ。本当はそんなことしたくないけれど、娘が大学登録料(授業料)をこっそり引き抜いて隠すのではないか心配になって学校までついてきて、登録済証の印を何度も確かめた。

大学に登録はしたが、数十万ウォンの登録料があまりにも惜しかった。「そのお金さえあれば私がしたい音楽をいくらでもできるはずなのに・・・」考えた末に、私は環境管理学のとある教授を訪ねて行った。

今思えば一言で「話にならない」哀訴を教授にならべた。「私は歌を歌いたいのにお金がないのです。 だから、登録料の半分だけ返していただけないでしょうか?」、まあ、そんな話だったようだ。

しばらく、あっけにとられた表情をしておられた教授は、やがて私を説得し始めた。「音楽することを止(と)めるつもりはない。だが、学校まで止(や)めながら歌を歌わなければならないほど、切迫したわけではないじゃないか。熱心にやって、アルバムでも世間にまず出すようになったら是非手伝ってあげる。」

お言葉を聞いて見ると、句句節節(一言一句)正しい言葉なので、私は考えを改めて講義にも洩れなく出席し、大学新入生としての自由を謳歌した。

思う存分歌を歌うことができるところを物色した私は、校内の音楽サークル<4>の新入会員募集ポスターが目について一走りに駆けつけて入会した

    (注)ここでいう音楽サークル<4>は、いわゆる「四幕五場」を指すと思われる。

<4>のメンバーは、音楽の実力は優れていたが、ろくな練習スペースが備えられない状態であった。私は、入学時の登録料を回してほしいと教授に駄々をこねた「勝ち気」だけ信じて、学長室に「談判」の長途(長い道のり)についた。学長面談の結果は、大成功だった。 <4>は、学校の建物屋上にある片隅に、ついにみすぼらしくても専用の練習室を整えることができた。

1学年の1学期が終わって夏休みが始まった。<4>は、その年7月29日のMBC「江辺歌謡祭(강변가요제)」を目標に猛練習に入っていったし、私は私なりに本格的に声を整え始めた。私が狙ったのは、秋のMBC「大学歌謡祭(대학가요제)」だったので、江辺歌謡祭はテストする一種の前哨戦ぐらいに軽く考えていた。
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(Youtubeに登録のAshley Maxに感謝)