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2014年1月2日木曜日

(資料)イ・ソンヒのスター・ストーリー「9.忙しい活動の中の毎日」

先日(9/27)、「スポーツ韓国」の紙面(1991年3月8日~4月5日)に連載された「イ・ソンヒ27歳当時のスター・ストーリー」記事の目次を紹介したが、その第9回目をここに載せたい。感謝。

イ・ソンヒが、マネジャーとの出会い、忙しい新人時代の様子、そして健康管理などを知ることができた。

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒ(27歳当時)の「スター・ストーリー」”、”資料:이선희 Profile”)


[9] 忙しい活動の中の毎日
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初めてのアルバムが想像以上に大ヒットをした後、私は新しいマネジャーのユン・ヒジュン先生*と手を取り合って2集の準備に入った

    (*) ユン・ヒジュン先生:イ・ソンヒの人生に大きく関係することになる。
          1991年の27歳当時の手記であるため、後の1998、1999年の出来事を知るべくもない。

ユン先生は、まずナイトスポットの出演を厳禁した。そうしたところに出て行って、煙たいタバコの煙とホコリの中で歌ってみても良いことは一つもないといって、放送出演以外の時間はみな練習に費やせと忠告した。また、ギターリスト出身の専門の音楽家らしく各種の名曲を聞かせながら、先生の言葉通りに「基礎から再び」教えた。

私はその時、音楽理論もたくさん学んだ。さらに国楽まで学びに通うほどであった。

だが、私の周辺の状況は、のんびりと(?)音楽の勉強でもするように日中放っておくだけではなかった。スケジュールがハードな日は、一日に何と八ヶ所の舞台に上がったりもした。

特に、両方の放送局の特集番組が一度に集まる年末年始には、言葉通り「あわてて(目をつり上げて)」MBCからKBSに、KBSからMBCに飛び回らなければならなかった。私は化粧もしなくて舞台衣装もズボンにジャケットを掛ける式で、気軽な方なので、それなりにちょっと落ち着いたりしたが・・・

それでも、ソウルでの放送出演は、地方に比べれば「両班」(気楽)だ。済州道と釜山などで、まるで隣家に飲みに行くように足しげく上がり下りして見たら、苦労は並大抵ではなかった。その上、今も飛行機酔いのある私は、主に自動車を愛用する。公演開始時間に合わせて見ると、食堂を訪ねて食事を済ませる余裕は最初から考えもできない。やむを得ず、車中でカップラーメンの切れ端で食事を間に合わせたりするけれど、その姿を見たある雑誌社記者は「イ・ソンヒが好む食べ物はカップラーメンだ」と書いたりした。

その記事のおかげで、我が家にしばらくの間、ファンが送ったラーメンが「どこにでも」あるほどあふれた。

目が廻るほど忙しい「行軍」を2年ほどしたので、そうでなくても虚弱な私の体は耐えることができなかった。結局、10日間病院の世話にならなければならなかった。退院後は、無理な出演依頼をできるだけ断る方だが、それでも定期的に「バタバタ」倒れるのは昔も今もあまり変わらない。

「健康に留意」という水準を越えて、「体力を鍛練」する必要がある私は、規則的な生活を最優先にする

たいてい歌手たちは、「ふくろうの生活」(夜間の仕事?)をする場合が大部分なので、何かわきまえず朝に電話しては「朝っぱらから何の大騒ぎだと」 「けんつく」されるのが常だ。甘い睡眠を邪魔されたくなくて、とても親しくなければ互いの電話番号も正しく教えないようにしている。

反対に、私は夜の仕事をしないので、歌手としては比較的早く寝る。私がしばらくの間、熟睡している夜明け(深夜)の1時頃にかかってくる電話は、私をとても苛立たせる。たいてい、私に電話する人は、その遅い時間まで外国歌手の公演ビデオや新曲を聞いて、音楽の話をしようとかけてきたことを分かってはいるけれど、いな、真っ暗ならば寝なければならないのではないか。

寝るとき寝て、仕事をするとき仕事をする規則的な生活以外にも、私は特に喉とお腹に神経を多く使う

歌手にとって、生命とも同じものが正に声なので、私は一日も欠かすことなく寝床につく前に、食塩水でガラガラしながら声帯「清掃」をする。たとえ一日に一度であっても、それがどれくらい面倒なことかは、しない人は分からないことだ。体質上、生卵はちょっと吐き気を催して、それでも一日中、口の中でトローチなどをモグモグすることは嫌いで・・・それで開発した方法が、毎晩「塩味補気」(塩辛いものを飲むこと?)である。

また、朝6時なら、寝床から起きて家の近所のヘルスクラブに走って行く。その位置は、明け方に運動する方々に、どちらであるか明らかにできない点、理解して欲しい。

ヘルスクラブで最も汗をたくさん流すステップは、「腹筋運動」コースだ。それもそのはずなのが、お腹の中で鳴って出てくる声と、喉だけ使って出す音声(国楽では「黄色喉(노랑목)」といったか)とは声自体が違うものであるから。運動のおかげなのか、今でも158cm、46kgの体を無理なく維持している。平素に、体力管理を怠れば、少なくとも人気歌手になることはできない。私でも、公演スケジュールが通常6ヶ月の前までは、埋まっている状態だ。公演日程に基づいて、着々進行されるのだが、体だけが何ともはやスケジュールに従って痛むことか。

いつ寝込むかもしれなくて、用心用心するが私の体は鋼鉄ではないので、時々出演パンク(破る、펑크)を出す時がある。大慨は、痛くて出られないといえば形式的で無愛想な語り口で「健康管理、上手くしなさい」という慰めの言葉をする。だが、時々は到底抜け出せない場合もある。

去る1988年、蔚山KBSで<歌謡トップ10>を生放送したことがある。

当時、私の歌「私の街」が1位曲であったが、その日に限ってスケジュールが重なってしまった。近いといえば近い距離ではあるが、釜山でも放送に出演しなければならなかったのだ。

結局、私は釜山公演を終えるやいなや、蔚山KBSに向かって全速力で車を疾走した。今考えて物凄い途方もないスピードであり、しばらくして何か焼ける臭いがした。タイヤのフレームが、アスファルト上に転がったところで、車中いっぱい煙が立ちこんだ。窒息するようだった。マネジャーの先生が、洋服の上着で覆わなかったならば、おそらく私は窒息死まではないにせよ気絶ぐらいはしただろう。

とにかく、どうにかこうにかかろうじて蔚山スタジオに入った時は、出演歌手全員がいっぺんに歌う準備をしていた。その瞬間、あたふたと駆け付ける私の姿を見たMCが、「たった今、イ・ソンヒちゃんが到着しました」と叫ぶと、私は「私の街」を息つまるように歌った。後ほど聞いてみると、2秒だけ遅れても、私は舞台に上がることができなかったという。その日私は、どんな悪条件下でも歌を歌う可能性があることを証明した。夜10時に寝て、朝6時に起きること。これにより、ほぼ午前中に進行される放送録画の時、一部歌手のように喉がかれることがないだろう。歌手志望生に聞かせたい言葉だ。
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