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2015年11月30日月曜日

イ・ソンヒの「少女の祈り」

総じて暖冬。昼の日向の温もりも、日陰に入ればヒンヤリする。月面であれ、宇宙であれ、太陽光のあたる部分とそうでない部分の温度差は想像以上。地上でも、砂漠の昼夜で随分と差がでる。そう考えると、この寒暖に不平もいえない。

紅葉は温度差が激しいほど美しいという。最盛期は過ぎたが、高尾山の紅葉はまだ見ごろとのこと。行ってみようかと思案するが、寒さと人の混み合いを想像するだけで足が遠のく。詩情がわかないが、近場の紅葉でおさめる。それにしても、紅葉を愛でるにふさわしい(人生の)時期もあるようだ。

イ・ソンヒの初めてのアルバムに収録の「少女の祈り(소녀의 기도)」(1985年)は、思い出が落葉のように重なる乙女の歌だ。次のYoutubeの歌声は、20周年コンサートのものだろうか。高音につやが加わって、なめらかに響く。たぶん、最も美しい紅葉だろう。

(本ブログ関連:”少女の祈り”)


風吹けば散る、寂しい落葉が みな
おぼろな露のよう、揺らぎます
その声耳にして   空しく歩く うつろな心は
*
離れた人 なつかしむ、切ない心だけれど
一人残り 守ればならぬ、 孤独なわたしを泣かすよ

引き留められぬ 未練さに
落葉の季節に わたしを埋めて
春がまた訪れを 祈ります、この夜が明けたら

(*以下繰り返し)

この夜が明けたら

(Youtubeに登録のseony7676に感謝)

2015年11月29日日曜日

なぜ仙人の話しをするのか

このブログは、イ・ソンヒのファンブログだ。とはいえ、毎日彼女のことを書き続ける力はない。そこで、彼女の歌の曲名や歌詞内容にキーワードを探し、思い浮かぶことを話題にしたりしている。テレビドラマの「僕のガールフレンドは九尾狐」挿入曲である、彼女の歌「狐の嫁入り(여우비)」(2010年)から、狐信仰、九尾狐、稲荷神社、(狐に関連して)山海経、聊斎志異、耳袋(嚢)など調べている。

(本ブログ関連:”狐の嫁入り”)

また、イ・ソンヒの父親が仏教音楽「梵唄(ぼんばい:범패)」の指導者だったことから、韓国仏教、国楽などに関心を向けている。

そんな一つに、イ・ソンヒの名前がある。漢字名「李仙姫」に、なぜ「仙」の文字があるのかについて、彼女が誕生する前に父親が見た「夢」から選ばれたということを何度か触れた。

(本ブログ関連:”李仙姫の名前”)

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「老木樹のチャン・ウクチョ(장욱조)が生命樹になって」

・イ・ソンヒは、(陰暦の)1964年11月11日に、(本籍地)忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里に誕生した。父(イ・ジョンギュ:이종규)、母(チェ・ビョンムン:최병문)の初めての子として誕生した。父母のそれぞれの夢に、男の子が示唆されていた。父の夢にあらわれた、山の神を意味する虎のために、彼女の名前(李仙姫)に神仙の「仙」の字が入ることになった。

(本ブログ関連:"イ・ソンヒの生誕")
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ここ数日、仙人について書き連ねている。いつか、仙人のいる仙境、あるいは桃源郷の世界を覗くことができたらと期待している。(とはいえ、仙人の事典のような列仙伝をめくると、彼らが普遍的な存在というよりは、一つの生き方に見えてくる。人模様というか、人様々というか。)

2015年11月28日土曜日

仙人になりそこなう

国立国会図書館には、古書をネットで参照できるサービス、「近代デジタルライブラリー」がある。<仙人 支那>で検索すると、最近気になり探している中国の仙人話しを読むことができる。

(本ブログ関連:”仙人”、”国立国会図書館”)

池田大伍編の「支那童話集:新訳」(富山房、大正13年)に、「聊斎志異」*をもとに書いた「仙人修業」がある。仙人になりたいという思いはあるが、それを浅慮と見抜かれた男の話しだ。彼は、仙人になる一途さも、仙人になる躊躇もない。あるのは、その気になってしまう粗忽さだけだった。

(* 「聊斎志異」の「仙術修業 - 労山道士」を童話にした)

仙人になりたくて、(労山にいる)道士に弟子入りしたものの長続きしない王生は、ひと月、ふた月と我慢したものの、とうとう暇を申し出る。何を思ったか、一つだけ秘術を教え乞うたのだ。道士は、「それ見ろ。だから、わたしはお前には辛抱はできないといったのだ。」といいながらも、壁抜けの術を授けた。そして、その時は、王生にもそれができた。
家に戻った王生は、仙道を学んできたといいわけするが、長い留守に女房に散々なじられる。そこで、壁抜けの術を見せようとする。
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「ではやってみせるぞ」
と、家の壁から、五六尺離れて、呪文を唱えて、頭を突き出して、駆けぬけようとしますと、堅い壁で、どさんと頭が突当たって、目が眩んで転倒(ひっくりかえ)りました。お嫁さんが助けおこしてみると、額の上に、大きな卵ほどの瘤(こぶ)が出来ました。お嫁さんはあんまり馬鹿々々しさに、笑い出しました。王はぷんぷん怒って、「悪道士め、欺(だ)ましたな。」と、次団駄ふみましたが、どうすることもできませんでした。
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人にも見極めがある。適不適だけでなく、人格まで見抜くことだ。勘といってもよいし、経験から体得したものといってもよい。重要な仕事を共にする場合に至極当り前の判別だし、自分が編み出した術を伝授するとなればなおさら肝心である。

ところが、見極めからはずれた当人は、なぜそうなのか理解できない。はずした側にすれば、きつくいえないし、早く気付いて欲しいと願うばかりだ。

2015年11月27日金曜日

仙人の心変り

季節が巡り、ようやく訪れた春に思いをあらたにするものだ。薄田泣菫は和やかな春に接して、掌編「春の賦」の後半に、次のような話しを紹介している。念願の仙人修行を成就したものの、一瞬の<ちょっとした>心変りした男を省察する。

中国のいつの時代だったか、馬明生は仙術の不老不死と飛翔にあこがれ、第一人者の安期生に弟子入りする。修業の後、「金液神丹方」を伝授される。この「神丹」を飲めば、不老不死となり、鳥のように空を飛べるというのだ。そこで、華陰山の山深く入り、教えられた秘法で仙薬を錬り、できあがった薬をてのひらに載せて、ほがらかな微笑さえも浮べて言った。
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  「わしは、今これを服そうとしているのだ。次の瞬間には、わしの身体は鸛(こうのとり)のように、ふわりと空高く舞ひ揚ることができるのだ。大地よ。お前とは久しい間の……」
 彼はこういつて、最後の一瞥を長い間の昵懇(なじみ)だった大地の上に投げた。
 その一刹那、彼の心は変った。彼は掌面に盛っていた仙薬の全分量の半分だけを一息にぐっと嚥み下したかと思うと、残った半分を惜し気もなくそこらにぶち撒けてしまった。
 飛仙となって、羽ばたきの音けたたましく大空を翔けめぐるべきはずだった馬明生の体は、見る見るうちに傴僂(せむし)のように折れ曲って、やがて小さな地仙*となってしまった。
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(* 地仙: 超越して飛翔できる天仙に対する、位の下る地上の仙人)

泣菫は、馬明生の一刹那の行動について、「彼の心変りも、詮じ詰めると、(時季がちようど春だったから感じる)そんなちよっとした理由にもとづくものではなかったろうか。/世の中にはよくそんなことがあるものだ。」と語る。

冬に枯れた心に、春は生命力を吹き込む。そんな自然を感応したとき、仙人の境界を知り、それを越えることに躊躇したのだろう。そうであるからこそ、人はより自然に引き寄せられる。わが身がどうであれ、地上の風景とともにあることを選んだのかもしれない。

(本ブログ関連:”仙人”)

2015年11月26日木曜日

(資料) 金泳三と歌手イ・ソンヒの握手

イ・ソンヒは27才となる1991年(6月20日)に、ソウル市会議員選挙にて麻浦地区から民自党候補として出馬し当選した。

(本ブログ関連:”ソウル市議会議員”)

連合通信の記事、「<YS死去> 金泳三と歌手イ・ソンヒの握手」(11/22)に、(イ・ソンヒがソウル市会議員選挙に出馬した)当時民自党代表だった金泳三(元大統領、1927年12月20日~2015年11月22日)と握手する写真(1991年6月)が掲載されている。

ちなみに、「金泳三」のローマ字名「Kim Young-sam」から「YS」と表記。(最近の)大統領名の略称として使われる。

金大中元大統領は「DJ」と呼ばれる。イ・ソンヒと握手している写真を、ネットで見たことがある。)

2015年11月25日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 島々の歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/18)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<島々の歌>にふさわしい3曲を紹介した。

始めに、全羅道地域の多島海にある「巨文島(거문도)」ついて次のように紹介された。
・韓国には3,300の島があり、その内2,300は南側に位置する。特に、珍島を中心とする西南海岸、全羅道地域だけで、2,000近くの島が散在し、海域を「多島海」と呼ぶ。海辺で海苔やカキを養殖し、その向こうに島々が並ぶ。海は田、島は山に思える。島は陸地ほど往来の自由がないが、それぞれ独特で貴重な文化を残している。全羅南道の麗水沖に「巨文島」がある。

▼ 多島海の島歌「巨文島の舟歌(거문도 뱃노래)」を聴く。潮風を受け、波越える海の男たちのみなぎる力が聞こえる。

次に、巨文島の歴史と「甫吉島(보길도)」の文化(尹善道:윤선도、1587年~1671年)について次のように紹介された。
・巨文島は麗水に属し、麗水から船で2時間かかる多島海最南端の島だ。麗水と済州島の中間に位置する。1885年から2年間、英国に占拠された「巨文島事件」で知られる。巨文島の漁夫歌に、船で使う綱をないながら歌う「スルビ歌(술비소리)」、帰港するとき歌う「ソル歌(썰소리)」など様々ある、全羅道のリズムと方言が特徴だ。
また、南の島、「南島(남도)」には、観光客が多く訪れる「甫吉島」がある。朝鮮時代、詩人の尹善道が済州島へ渡るとき、その景色に魅了されて定着したほどだ。ここで風流を楽しみながら書を読み詩作した。甫吉島の四季を描いた「漁父四時詞(어부사시사)」も、ここで出来た作品だ。尹善道が手入れした建物と庭園は、「尹善道園林」といい多くの人々が訪れ、甫吉島の自然保護にも役立っている。

▼ (管)ソグム、(弦)ヘグム・カヤグム演奏「甫吉島の朝(보길도의 아침)」を聴く。陽光が次第に広がり渡る、今様である。

最後に、「珍島(진도)」の地理と、葬儀の歌「珍島タシレギ(진도다시래기)」について次のように紹介された。
・また、南島文化に欠かせなぬ場所が「珍島」だ。韓国で3番目に大きい島で、漁業より農業が盛んだ。美しい環境の影響か、数々の有名アーティストを輩出している。また、歌と関連した多様な無形文化財も保有しており、住民が積極的に参加、継承している。珍島には、葬儀を行う際、村人が喪家で歌い踊る風習があり、そのとき「珍島タシレギ」を歌う。珍島の人々の生き方がうかがえる歌だ。

▼ ”大きな悲しみも歌を歌いながら乗り越える”という歌「珍島タシレギ」を聴く。Youtubeでは寸劇もあるようで・・・賑やか。

2015年11月24日火曜日

イ・ソンヒのカバー「未練」、「あなたの愛は」

民謡を含む国楽からトロットまで、あらゆるジャンルを網羅するイ・ソンヒの歌唱力について今更語ることはないだろう。先人の曲をカバーする際に、独自の色に染め上げるのではなく、真摯に向かい合い、その曲が本来持っているだろう音楽性を繊細にすくいあげる。歌声は聴く者の心に深く沁み込み響く。

(本ブログ関連:”「愛しか私はわからない」”、”トロット・メドレー ”)

めずらしい(京畿道抱川市にある光陵林業試驗場での)映像がYoutubeにある。イ・ソンヒがカバーする次の2曲を聞くとき、原曲の持つ大衆性を、イ・ソンヒがいとも容易に引き出していることに気付く。しかも、今聞いても古色でなく、時代の臭いを感じさせないのに驚く。

・チャンヒョン(장현、1945年~2008年)の「未練(미련)」
・ヤン・ヒウン(楊姫銀、양희은、1952年~)の「あなたの愛は(내님의 사랑은)」

(Youtubeに登録のjenny.kimに感謝)

2015年11月23日月曜日

小雪2015 外語祭

二十四節気の「小雪(しょうせつ)」にしては、冷え込みは鋭くないが、小雨まじりの曇天は重く、いかにも雪がぱらつき始めるこの候らしい気配がした。私は、「小雪」をどうしても「こゆき」と呼んでしまう。

(本ブログ関連:”小雪”)

そんな午前中、少し先の街にある大学の学園祭に、空模様を気にしながら出かけた。東京外国語大学(TUFS、タフス)の「93回 外語祭」である。各語学専攻の学生たち、主に2年生による「語劇」が催された。27の芝居の中から、「さようなら、カン・ハンナ(강한나、안녕)」(11:30~12:30)を観劇した。

(参考: TUFS外語祭2015朝鮮語科語劇

芝居は、映画「カンナさん大成功です!미녀는 괴로워!、美女はつらい)」のストーリーのようだ。歌唱の才能はあるが容姿のため、芸能界では影としてしか扱われず、強いコンプレックスを持った若い女性(カン・ハンナ)が、美容整形して(ジェニーに変身して)大成功をおさめる。その分、失ったものもあるが、それをどう回復させるかまでを若い学生たちが熱演した。

おもわず見入ってしまったが、考えてみれば演劇サークルの芝居ではない。彼らの演技に驚いたし、映像を取り入れたり、観客席を劇中の劇場に変換したりする演出にも感心した。久し振りに若い世代の熱気に触れた気がする。

(付記)
帰り道にある公園で、紅葉と落ち葉の景観を楽しんだ。紅葉が遅れているそうだが、うっかりすると見落とすかもしれない。大切な景色なので、ひとつひとつの機会を大事にしたい。

2015年11月22日日曜日

いつまでも若いね

子どもの頃、両親が、映画俳優の山本富士子(1931年12月11日~)をいつまでも若いねえといっているのを聞いて、一体いつの話しかと距離を感じていた。今、私が、同じく(青春スターだった)俳優の吉永小百合(1945年3月13日~)がいつまでも若々しいねといえば、子どもたちが果たして納得してくれるだろうか。

お二人を記憶した時期による印象の差がそうさせたのだろうけれど。考えてみると、お二人の歳の差はわずか13歳だ。今の私の年齢からすれば、その差はほんの些細なこと。むしろ意外な感じがしたほどだ。

ちなみに、イ・ソンヒ(1964年12月14日~)もいつまでも若い。ただし、教室の先生から見れば、母親世代の歌手の話しになる。イ・ソンヒより芸歴が先輩で、70年代に「本当に本当に(진짜 진짜)」シリーズでヒロインを独占した青春スターのイム・イェジン(임예진、1960年1月24日~)との歳の差はたった4歳でしかない。イム・イェジンが10代の頃の笑顔は、本当に自然で健康的で愛らしい。Youtubeの映像で確認できる。

(本ブログ関連:”イム・イェジン”)

女性の若々しさを表現するのに「童顔(동안)」という言葉がある。彼女たちが人気を博したときも、無垢に通じるわらべの要素が多分に残っていたのだろう。まさに頃合いによろしいようだ。(若い頃整い過ぎると、老いて後その変化に驚くことがある)

2015年11月21日土曜日

仙人はたいへんだ

薄田泣菫のひとくち話集ともいえる随筆「艸木虫魚(そうもくちゅうぎょ)」に、仙人と路傍の石がいっとき対話をする「仙人と石」がある。本来、動と静、変幻と不動の対比を持つべき、仙人と石が互いに存在を語り合う不思議な話しだ。

(本ブログ関連:”薄田泣菫”)

仙人は、雲に乗って飛び回る、そんなイメージがあるが、石との対話で人間らしい悩みを見せる。出会いと別れは次のように語られる。

法力でこさえた驢馬にまたがり、一日五万里を巡る仙人がいた。あるとき旅に疲れて一休みした際、路傍に昔からいる白い石に呼びかけられて、なぜ駆け回るのか問われた。
「わしは幸福の棲む土地をたずねて、方々捜し歩きたかったからだ。」と仙人はこたえた。だが、その幸福は、「まだ見つからない。そしてわしはすっかり年をとってしまった。」とつぶやく。
石は、「どうだい、いっそここに落ちついて、わしと一緒に棲んじゃ。」と申し出るが、仙人は断わって、「そうだ。幸福を求めて。……こんなにして方々駆けずり廻って、やがて死ぬのが、わしの一生かも知れない。でも、わしは出かけなければならない。」といい、嵐のように飛んでいった。
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白い石は低い声で独語を言って、そのまま黙ってしまいました。
秋の日はそろそろ西へ落ちかかりました。途を間違えたらしいこがね虫が、土をもち上げて、ひょっくりと頭を出しましたが、急にそれと気づいたらしく、すぐにまた姿を隠してしまいました。
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何もかもが見えてしまう、見えると思っている仙人はたいへんだ。無為を手柄にする石とて同様。幸福を探しても気付かず、分からない。遣り過ごしている傍らにある、かわらぬことにこそ、本当の幸福があるかもしれないからだ。

(本ブログ関連:”仙人”)

2015年11月20日金曜日

仙人になりたい

上方落語に「口入屋(くちいれや)」(職業斡旋所)がある。船場にある大店の一番番頭が、今度こそ美女が奉公に来るよう、丁稚を使って口入屋に頼む。望み通り美人の女中が来て、店の男たちは大騒ぎになる。早速、夜分に、二番番頭が二階で寝ている彼女に近づこうとする。そんなことを用心したおかみさんが、二階につながる梯子を外していたため、膳棚を使ってよじ登ろうとするが崩れてしまう。次に一番番頭も同様で、二人して棚を支える羽目になる。また、手代は天窓の紐を使ってよじ登ろうとするが、紐が切れて池に落ちてしまう。・・・どれだけドタバタなことだろう。

美女に近づこうとして、夜中に棚を担いだり、池に落ちたりする凡人の滑稽な結末だが、仙人とて同じこと。久米仙人は、久米川の川辺で洗濯する若い女の脛(すね)足を見るや、飛術に失敗して墜落する。久米仙人に、凡人ながら共感してしまうのは私だけではないだろう。

芥川龍之介に「仙人」という短編がある。何をヒントにしたのだろうか、次のような話である。

その昔、大阪の口入屋に、不老不死の仙人になりたいと、権助という者が頼みに来た。口入屋は思案にくれるが、医者の家にひとまず奉公させることにする。
仙人になりたいと申し出る権助に、医者がなぜなりたいのかと問えば、大阪城の太閤様もいずれ死ぬ、栄耀栄華のはかなさからという。そこで、狡猾な医者の女房は、仙人になる術を教える口実に、二十年間ただ働きの約束をさせる。
そして、二十年目を迎えて、権助は仙人の秘術を願い出る。すると、何を思ったか医者の女房は、庭の松の木の一番高い梢にまで登らせて、しかも両手を離させたのだ。落下すれば、下の石に当たって命はない。
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権助はその言葉が終らない内に、思い切って左手も放しました。何しろ木の上に登ったまま、両手とも放してしまったのですから、落ちずにいる訣はありません。あっと云う間に権助の体は、権助の着ていた紋附の羽織は、松の梢から離れました。が、離れたと思うと落ちもせずに、不思議にも昼間の中空へ、まるで操つり人形のように、ちゃんと立止ったではありませんか?
「どうも難有うございます。おかげ様で私も一人前の仙人になれました。」
権助は叮嚀に御時宜をすると、静かに青空を踏みながら、だんだん高い雲の中へ昇って行ってしまいました。
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まるで落語のようだが、落ちに、落ちることのない話しだ。仙人のごとく空中に浮かんだ権助がうらやましく思える。彼は自ずから飛ぶ術を体得してしまったのだから。しかも、近所の日常のなかで成し遂げた。

(本ブログ関連:”仙人”)

2015年11月19日木曜日

イ・ソンヒの「歳月は流れても」

思い出を語るのに、イ・ソンヒの4集収録の「歳月は流れても(세월은 흘러도)」(1988年)ほど、素直な曲はないだろう。まるで窓から差し込む陽を受けながら、アルバムのページをめくり見るような懐かしさだ。それは、日常の平穏に包まれながら感じる遠い記憶かもしれない。

4集がリリースした1988年はソウル・オリンピックの年であった。

以前、本ブログに掲載した、釜山日報「ウィークエンジョイ」(10/28)の記事、「【8090 この歌この名盤】17.イ・ソンヒの4集と5集(アルバム) - 『Jへ』 彼女を除いて80年代歌謡を語るな」(チェ・ソンチョル ペーパーレコード代表)に、次にように紹介されている。(抜粋)
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4集で最も高い関心が集まった曲は、「美しい江山」である。(略) それまでは大衆的にそれほど大きく知られていなかった同名曲が、イ・ソンヒのリメイクによって、多くの人々から愛されるようになったので、その功労もまた小さいということはできないだろう。個人的には、4集でユン・テヨン作詞、作曲の「歳月は流れても」を最も好む。容易で平易なメロディーを持ったこの歌は、たとえ大ヒットではなかったが、ボサノバ風の洗練された編曲が直ちに耳をひきつける曲だ
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ちなみに、本来ロック的な抵抗心があった「美しい江山」は、1988年には国民鼓舞的なものへと変身することになる。


「歳月は流れても」

歳月は流れても  私たちの心は
忘れられたその街に  残っています

歳月は流れても  私たちの愛は
散ったその時間に  残っているわよ
*
その昔の記憶を  たどってみましょう
忘れられたその街を  歩いてみましょう

その昔は夢のように  散ってしまった
その時間はどこにあるのか  探してみましょう

歳月は流れても  思い出は残っている
忘れようとすればするほど  思い出します

(*以下繰り返し)

忘れようとすればするほど  思い出します

(Youtubeに登録のJ-GODに感謝)

2015年11月18日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 人を思いやる歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/11)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<人を思いやる心の歌>にふさわしい3曲を紹介した。

始めに、人と心をつなぐ最近のイベント日について、次のように紹介された。
・「バレンタインデー」(2/11)に、好きな人へチョコレートをあげ、「ホワイトデー」(3/14)にはキャンディをあげる。恋人たちに特別な日だ。他にも特別な日がある。恋人のいない者同士が集まって中華風ジャジャン麺を食べる日を「ブラックデー」と呼ぶ。また、11月11日は、1が四つ並ぶことから、(グリコの)「ポッキー」に似た菓子である(韓国ロッテの)「ペペロ」を恋人同士だけでなく、職場の同僚や学校の先生、友達などに配る「ペペロデー」がある。企業主導のイベントとの批判もあるが。

▼ 自分の愛を綿の布団に例えた詞が温かい歌「愛の歌(사랑가)」を聴く。ステップを踏んで愛を確かめる、今様である。

次に、「端午の節句」に扇子(부채)の下賜や、クネ(ブランコ、그네)に乗ることについて次のように紹介された。
・上記の他に、特定の贈り物をする日があった。「端午の節句」に、宮中で臣下に扇子が下賜されたりした。昔のソンビは、扇子を持ち歩き、自分の喜びや怒りの表情を隠すのに使用したという。ところで、端午の節句といえば、「春香伝춘향전)」に、端午の節句にクネに乗った春香を、李夢龍(이몽룡)が見染めるという話がある。

▼ クネに乗る春香の姿を素材にした南道民謡「フィヨヌンチョン(휘여능청)」を聴く。風がかすめる気がしてくる。

最後に、真冬の冬至に「暦(カレンダー、달력)」を贈る風習について次のように紹介された。
・真冬の冬至に「暦(こよみ)」を贈る風習があった。冬至は、昼が最も短かく、次の日から長くなるので、昔は「小正月」とも呼ばれた。朝鮮時代、この頃に新年の暦を作って、王に捧げる風習があった。王が暦に印を押して官吏に配ると、それを家族や親戚に分けた。農業社会の当時、暦に種まき時期や農作物の刈り入れ時期を記した。祭祀を捧げる時期を記す重要な役割もした。暦を贈り合うのに、相手が健康で良い年を迎えるようにという思いが込められたのだろう。

▼ 人々の健康を祈る厄払いの歌「厄除け打令(액맥이타령)」を聴く。東西南北と中央、辺り四方に厄除けする。

(感想) 確かに、新しいカレンダーを持つことは、その一年が無事平穏であることの思いにつながりますね。

2015年11月17日火曜日

天気予報

今回(11/16)の鉱物採集は運がよかった。全員のスケジュールを重ね合わせると、実施は昨日しかなかった。調整が難しい場合、私の今日の予定をキャンセルすることも想定していたが・・・

昨日でよかった。小春日和、インディアンサマーという穏やか日和だったのだから。それに比べて、今日は天気が一変して、しとしと降りだ。

鉱物採集プランは、まず大ベテランに採集地を決めてもらい、もろもろ相談する。その上で、長期の天気予報から日程が決まる。大体1ヶ月前と2週間前くらいだ。できるだけ、採集日の前3日と後1日に好天が続くのが望ましい・・・。

そこで、1ヶ月前および2週間前の予報として一番あてにしているのは、ネットの「AccuWeather」を参照する。さらに、1週間前の予報として「Weathernews」も加えて参照する。両者が大きくずれることはないが念のためだ。

とはいえ、今回のように翌日の天気が大きく変化したりすると、天気予報のありがたさを思い知る。

鉱山*は山中なので、天気が山並みに影響されることがないか気になる。ピンポイントで天気予報を表示するけれど、その精度がどれくらいか知りたいところだ。

*) ちなみに、鉱山は産業であるので交通の便が要される。特に、近代まで稼動した鉱山の場合、道路事情が思いのほか良く、ときに「横付け」という、道路から直ぐに鉱山へ入る道があったりする。

2015年11月16日月曜日

秩父鉱山(大黒川原)

早朝とはいえ明るいだ頃、鉱物採集に家を出た。今回は余裕がある。いつもと比べて3時間遅いのだ。東の空は朱に輝やき、日の出を待っている。

駅ホームに入ってきた電車に戸惑う。休日・祝日に鉱物採集して、気にもとめなかったが、まさに通勤電車なのだ。つい、車内での自分の姿を想像してしまう。待ち合わせ駅でも、平日モードの人々が改札口から次々出て来るのに更に驚く。

落ち合った鉱物仲間S氏と、いつもお世話になっているH氏の車に同乗させていただき、目的地の埼玉県秩父鉱山へ向かう。県道210号線に入れば、進むほど紅葉が増す。大黒坑手前にある広場でY氏と合流して、いよいよ鉱物採集を開始する。

(本ブログ関連:”秩父鉱山 - 大黒渦の沢石灰沢小倉沢”)

小春日和に恵まれ、空気は澄み、川原は少しひんやりしている。期待に胸が膨らむ。昼飯を挟んで約4時間、採集に没頭・・・果たして、オーソドックスなものばかり。成果は、私の謙虚さを表しているようだ。

・黄鉄鉱、磁鉄鉱、閃亜鉛鉱、硅孔雀石、柘榴石、(水晶)、(方解石)

平日の鉱物採集の特典は、帰り道に混雑がないことと発見した。次回から、おじさんたちの行動は、平日の方が都合よいかもしれないと覚った。

2015年11月15日日曜日

(資料)1980年代の大衆歌謡

1984年に登場のイ・ソンヒがデビューを飾った1980年代の韓国大衆歌謡について、DAUM掲載「韓国民族文化大百科事典」の「大衆歌謡」から「5.1980年」の項を見る。(事典の「大衆歌謡」に、70年代以前および90年代以降について解説がある)

80年代に流行した音楽ジャンルの変遷を次に載せさせていただく。当時の世相やメディアの変化についても知ることができる。(区分タイトルとして、音楽ジャンルなどを< >で追記した)

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5.1980年代

1980年代は、大きく1987年を基点に分かれて1991年頃まで持続する。 単純に説明しようとするなら初中盤はスーパースター、チョー・ヨンピルの主導が、後半はバラードの主導の中にダンスミュージックアンダーグラウンド(=公演を中心とする音楽活動)ロックが躍進する様相を見せた。

<スタンダード・ポップとロックの結合>

1980年代前半を通して最高のスターの座を譲らなかったチョー・ヨンピルは、一方で1980年代前半を主導する新しい作品傾向を創出して先導しつつ、他方で韓国大衆歌謡史の重要な様式を総網羅したデパート式作品世界に、多くの世代や趣向の需要者を受け入れた。1980年代式の「窓の外の女(창밖의 여자)」は、おなじみの1960年代式短調スタンダードポップの旋律を基本にして、ロックを組み合わせつつ、起承転結を破壊した分節的構成とシャウトなどロックの特性を華やかなハーモニーと旋律で包み込んだ。その結果、壮年層まで馴染む悲劇的な情調にロック的な強烈さを加えた新しい傾向を作り出したし、以後、「悲恋(비련)」、「蝋燭の火(촛불)」、「見つけられない鶯(も~いいかい、못 찾겠다 꾀꼬리)」を経て、「涙のパーティー(눈물의 파티)」、「マドヨ(마도요)」に至るまでのヒットを継続し、1980年代初中盤の主導傾向に固めていった。スタンダード・ポップの旋律にロックを結合するこの方法は、「花一輪(꽃한송이)」のキム・スチョル、「偶然に出会った君(어쩌다 마주친 그대)」の隼(はやぶさ)、「Jへ」のイ・ソンヒ、「熱愛(열애)」のユン・シネなど、この時期、ほとんどの人気歌手たちヒット曲​​が採用された方式であった。また、これらの主導傾向に加えて、モダンロックの「ショートヘア(단발머리)」、「あまりにも短い(너무 짧아요)」から、本格的な短調スタンダードポップの「情(정)」、トロットの「一途なタンポポよ」、「憎い、憎い、憎い(미워 미워 미워)」、「虚空(허공)」、民謡のリメイクの「恨五百年(한오백년)」に至るまで、フォークを除く韓国大衆歌謡史の全様式を網羅した作品世界を同時的に示した。したがって、チョー・ヨンピルは、10代から中高年層に至るまで、ほぼすべての世代を需要者に抱き込み、自作曲歌手でありながらも、作家主義的とはいえない大衆志向的態度を見せてくれた。

<バラード>

・一方、1988年のピョン・ジンソプの「一人になるということ(홀로 된다는 것)」のヒットから、新しい主導の様式に登板したバラードは、1980年代初中盤のイ・ヨン、チェ・ソンス、イ・グァンジョなどの人気を踏まえて様式を形成し始めた。1980年代前半期には、チョー・ヨンピル主導の中にロック的な強烈さが主導したというなら1985年を契機に、より繊細な内面を華麗な旋律とハーモニーを歌う作品の人気が登り始めた。ついに、アンダーグラウンドといえる「愛しているので(사랑하기 때문에)」のユ・ジェハ、イ・ヨンフンが作った「私は分からないでしょう(난 모르잖아요)」、「愛が過ぎ去れば(사랑이 지나가면)」を歌ったイ・ムンセの人気を経て繊細さと華やかさが深まり、1988年ビョン・ジンソプを契機にしてバラードの典型的な姿が完成されたようだ。以後、「悲しい絵のような愛(슬픈 그림 같은 사랑)」のイ・サンウ、「最後のコンサート(마지막 콘서트)」のイ・スンチョル、「悲しい表情しないでください(슬픈 표정 하지 말아요)」のシン・ヘチョル、「別れの陰(이별의 그늘)」のユンサン、「微笑の中に映った君(미소 속에 비친 그대)」のシン・スンフンに至った。

<ダンスミュージック>

・これと共に、1984年チュ・ヒョンミの「雨降る泳東橋(비 내리는 영동교)」をきっかけに、トロット特有の非劇性が清算された新しい演歌傾向が浮上してヒョンチョルなどが人気を得て、ナミの「クルクル(빙글빙글)」を初発に始まったダンスミュージックは、「今夜(오늘밤)」のキム・ワンソン、「愛の不時着(사랑의 불시착)」のパク・ナムジョンなどによる独自の様式で場をつかんだ。

<フォーク>、<ロック>

・一方、フォークは、1980年代前半まで、ナムグン・オクブン、。ヘバラギ(向日葵)、シン・ヒョンウォンなどがときたま大衆的なヒット曲を出したが、多くはアンダーグラウンドで新しい模索をした。「木漏れ日のなかで(나뭇잎 사이로)」、「スミレ(제비꽃)」などのチョ・ドンジン、「北漢江で(북한강에서)」のチョン・テジュンが、フォーク・アンダーグラウンドの流れをリードした新鋭の「愛の日記(사랑일기)」のシン・イングァに至るまで、思索と熟視の姿勢を鋳造していった。しかし、フォークで出発した人のうち何人かは、ブルース、ロックなどに作品世界を移動させた。ついに1985年に、フォークで活動を始めたチョン・イングォンとチェ・ソンウォンが主導するロックグループのトゥルクッカ(野菊)の最初のレコードが、テレビの助けがなくても、30万枚を販売する気炎を吐きながら韓国のアンダーグラウンドとロックの時代の新しい誕生を知らせた。何よりも「それだけが私の世界(그것만이 내 세상)」、「行進(행진)」などトゥルクッカの歌は、シン・ジュンヒョンからソンゴルメ(隼)に至るまで、テレビに向かって走ってきたロックが示せなかった、ロックな世界認識と態度を示した点でより一層意味がある。

<ヘビメタル>、<ブルース>

以後、「ラジオをつけて(라디오를 켜고)」のシナウィをはじめ、プハル(復活)、白頭山などヘビメタルグループがレコードを出してアンダーグラウンドの中心を固めており、1970年代末からロックでスタートして、1980年代後半、「愛しました(사랑했어요)」、「雨のように音楽のように(비처럼 음악처럼)」などのヒット曲を出したキム・ヒョンシクがロックの新しい時代を開いていった。
一方、フォークで開始したイ・ジョンソンがオム・インホと手をつないで、ハン・ヨンエ、キム・ヒョンシクなどを糾合して作成された、新村ブルース신촌블루스は韓国大衆歌謡の様式の地平を広げたし、このメンバーは「誰かいない(누구 없소)」のハン・ヨンエで見られるように、各自ソロとしての地位を固めた。

<民衆歌謡>

・1987年6月市民抗争(시민항쟁)をきっかけに、大衆歌謡界の外側で(歌い)継がれたものと運動組織に依存して存在していた民衆歌謡大衆歌謡市場の中に進入したのも韓国大衆歌謡史全体で空前絶後の事件である。(民衆歌謡グループの)歌を探している人、ノレマウルなどは、民主化展開と共に人気を享受しながら、民衆歌謡「松の木よ、青い松の木よ(솔아 푸르른 솔아)」、「四季(사계)」、「その日が来れば(그날이 오면)」、「白頭山(백두산)」などを一般の人たちにも人気のある曲にした。
これらの存在は、この間散発的に存在していたキム・ミンギ(「朝露(아침 이슬)」)、돌(?)などの社会批判的フォーク自作曲の歌手の存在を一陣営に束ねて認識させた、以降、チョン・テチュン、キム・グァンソク、アン・チファンなど大衆歌謡圏中の民衆歌謡の流れを作っていった。これらの活動は、放送メディアで力を発揮できなかったが、レコードと公演で人気を集めながら、影響力を発揮しており、1990年代以降、大衆歌謡の表現の自由を伸長させ、ついにレコード検閲撤廃にまで進む実質的な動力となった

<LPからカセット、ウォークマン、CD>

・1980年代にも大衆歌謡の媒体は、多くの変化を示した。すでに、1970年代半ばに定着したカセットテープは、LP(レコード)に比べて複製と持ち運びが楽なレコードとして脚光を浴びていたが、1980年代に入っては、いわゆるウォークマンと呼ばれた小型カセットプレーヤーが急激に普及した。ウォークマンのような1人機器で歌を一人で聞く文化が青少年の間で拡散しながら、1980年代後半アンダーグラウンドは、この土台の上で成長することができた。そして作品性を重視するアンダーグラウンドの需要者たちは、1980年代末に始まった高音質のコンパクトディスク時代の最も重要な需要者に浮上した。一方、テレビは本格的なカラーテレビの時代に突入して、大衆歌謡の視覚性はますます重要になり、1980年代半からのダンスミュージック旋風は、これらの媒体の変化の中で行われたものだった。
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2015年11月14日土曜日

時雨

二十四節気の「立冬」(11/8)を過ぎても冬らしくない。気象庁の用語で「冬」は、12月から2月の期間、まだ冬でない。曖昧な時期だ。

陰暦で今日は10月3日、晩秋の候である。この時期に降る雨を「時雨」という。気付けば辺りを湿らせ、手を差し出せば濡らす。ひとの活動を鈍らせる。

女性の髪を霧が濡らすように、時雨のことば「しぐれ」にもどこか女性的な感がある。面白いことに、演歌の題名に使われるとき、漢字ではなく、ひらがなの「しぐれ」が使われることが多い。

しばらくなのか、通り過ぎるからなのか、時にかなうわけでもないこの時雨(しぐれ)の語源ははっきりしないようだ。

2015年11月13日金曜日

曇り空の今晩、月を見ることはない。<月齢1.4>ゆえ、晴れても気付くことはないだろうけれど。

月の明るさに驚くことがある。先日の帰り道、夜空に雲が白くたなびいていた。更に上空に煌々と輝く満月がいた。もし窓辺から庭を覗いたら、余りの白さに霜かと驚いたろう、李白のように。

ブログに記したが、KBS WORLDラジオ番組「国楽の世界へ」の「晩秋」の回で紹介された、朴木月の詩「旅人」に、雲間の月が旅人と共に進むよう詠われている。これは、実感することだ。月と追いかけっこした子どものころの記憶は鮮明だ。

木から落ちたときより、潮の満ち引きに、重力のスケールの大きさを実感する。テレビのSF番組で、固い流星が月に衝突して、月の公転がずれて地球に衝突するというパニック物語があった。結果がどうなったのか、番組を最後まで見ることができなかったので知らない。どのように危機を回避したのだろうか。

火星航路のキャビンで、近づく月を見晴るかすとき、きっとナット・キング・コールが歌う「私を月へ連れてって(Fly Me to the Moon)」(1954年)が流れてくるに違いない。火星で待つ家族を思いながら。

2015年11月12日木曜日

イ・ソンヒの「私はいつもあなたを」

一途な想いの歌なら、(想いなんて知らぬ頃に聞いていたのだが)、プラターズ(THE PLATTERS)の「ONLY YOU」(1955年)だろう。アメリカン・ポップの流れるラジオからこの曲を聴いたのは、リリースされてからもっと後のことだ。Youtubeで聞き返すと、当時の懐かしさがよみがえる。(登録者Aguinaldo Oliveiraに感謝)

映画「家門シリーズ」の第一弾「家門の栄光」は、ヤクザの親分の娘が、ソウル大卒の若きベンチャー企業経営者に恋することから始まる喜劇である。箱入り娘に育てられた彼女はすべてにおいて純粋で、現実を吹き飛ばすギャグな騒動を巻き起こす。そんな彼女が、ピアノで弾き語りして哀切に歌うのが、イ・ソンヒの4集に所収の、「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」(1988年、キム・ミンジョン作詞、ソン・シヒョン作曲)だ。(ちなみに、日本のカラオケでは、曲調がまるで演歌風になっている)

(本ブログ関連:”私はいつもあなたを”、”家門シリーズ”)


いつもあなたを、慕っているのに
思うようにはいけない
今日も、セピア色した写真の中に
あなたの姿しのぶわ
*
いつもあなたに、会いたいのに
あなたは何処へ立ったの
優しいその姿、涙で染めるわ
あなた、私に戻ってよ

戻ってきて、私のところへ
すべて、あなただけなのよ(Oh~~)

燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ

(*以下繰り返し)

(戻ってきて・・・)
あなた、戻ってきてよ
すべて、あなただけなのよ

燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ

(Youtubeに登録のpops8090に感謝)

2015年11月11日水曜日

MRJ初飛行

中学時代、飛行機ファンだった。当時の漫画週刊誌に、普通に戦時中の戦闘機を題材にした物語が連載されていたし、テレビでも記録番組が放送していた。いまとは大分違う時代感覚だった。

(本ブログ関連:”飛行機”)

飛行機について、その後、熱烈さは衰えたが、それなりに関心を持っている。千歳-女満別線のYS-11ラストフライトと聞いて、最終前日だったが乗った・・・知床硫黄山に硫黄を採りに行くことと合わせての旅だったが。その他は、平凡だが地元の飛行場に休日散歩しに行くことくらいである。

YS-11につぐ、戦後2番目の旅客機の<MRJ>(三菱重工)が、本日、約1時間半の初テスト飛行をした(愛知県営名古屋空港)。離陸の様子がテレビで実況中継されるのを見守った。「離陸後、太平洋側の空域を利用し、上昇、下降、旋回などの基本特性の確認」をしたとのこと。

すっと抜き出るような機首のラインがとりわけ美しい。輸送機転用を意図しないような、旅客機の優美さがある。2、3年後にANA機として就航するわけで、機会があったらぜひ乗ってみたい。

(Youtubeに登録のMitsubishiAircraftに感謝)

KBS WORLD「国楽の世界へ」 晩秋

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(11/4)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<晩秋>にふさわしい3曲を紹介した。

始めに、旅人を歌う朴木月(박목월、1916年~1978年)の「旅人(나그네)」について次のように紹介された。
・田を黄金色に染める晩秋。ことわざに「稲は実れば実るほど頭を下げる」がある。「能ある鷹は爪を隠す」と似る。稲が実るこの頃の風景であり、黄金色の稲が風に揺れる。既に刈り終えた空っぽの田、人気のない秋の景色、心穏やかになる。朴木月の「旅人」の詩を謳うと、秋の趣が感じられてくる。豊かな季節でありながらもどこか寂しい感がする晩秋の趣だ。

▼ 張思翼(장사익)の歌う、コムンゴ伴奏曲「旅人」を聴く。百代の過客のよう、月と旅人が雲を追う味わいがする。

次に、キムチを漬ける「キムジャン김장)」の光景と、パンソリ「興甫歌(흥보가)」について次のように紹介された。
・11月8日は、冬が始まる「立冬」。この頃の光景に、キムチを漬け込む「キムジャン」がある。昔、どの家もキムジャンの準備をしたが、最近、温暖化の影響で時期を遅らすこともある。また、キムチを多く食べぬため、キムジャンをしない家もある。新鮮な野菜が多くなったのも理由だろう。キムジャンの時、家族がみな集まり、女性は白菜を塩漬けにし、大根を千切りにする。男は外で越冬用のキムチ漬けのかめを埋めるため土を掘る。2013年にユネスコ人類無形遺産に登録される。
・キムジャンのもうひとつの楽しみに、塩漬け白菜に、味付けしたヤンニョムと豚肉をはさんで食べることがある。でも、全て余裕があった人の話で、冬は貧しい人々にとって大変な時期だった。
・世の中、善人ばかりでない。興甫(흥보)とノルボ(놀보)の物語に登場する、兄ノルボは意地悪で、よりによって最も寒い時期に弟興甫を追い出すほどだった。

▼ パンソリ「興甫歌」から、「兄ノルボが弟興甫を追い出す場面」を聴く。そう思って聞けば情けもないように・・・。

(本ブログ関連:"興夫歌"、"興甫歌")

最後に、同じ頃の味噌作りなどについて次のように紹介された。
・この時期、キムジャンに劣らず重要な仕事に味噌作りがある。料理のほとんどに、醤油、味噌、辛みそのコチュジャンのひとつやふたつが入る。料理の味はこれらによって左右されるとも言われる。必要となる材料は、大豆の麹で、色々と手間のかかる作業で、醤油などを醸すには、色んな下準備を始め、何ヶ月も発酵させる手間がかかる。家族を想い、愛する心での大変な作業だった。

▼ 「冬の日に暖かい光を(겨울날 다슨 빛을)」の歌を聴く。修道女のコーラスを思い出す、心温まる今様だ。

2015年11月10日火曜日

イ・ソンヒの2015年末イベント

昨年(2014年)末、イ・ソンヒには次の主なイベントがあった。①12/20 救世軍慈善公演(新村歩行者天国 - 現代UPLEX前)、②12/22 デビュー30周年記念ライブ・アルバム発売、③12/28 SBSドキュメンタリー・スペシャルなどだ。今年はどうだろうか。

・まず、来月12月11日(金)に企業(ロッテ・カード)主催の「フリークリスマス11周年 - コンサート『同窓会』」のイベントに参加することがネット情報で伝えられている。(慶煕大 平和の殿堂、4,000人)

・韓国の誕生日は陰暦を採用していて、イ・ソンヒの場合、1964年11月11日(忠清南道保寧郡(現在は市)珠山面篁栗里)である。これを陽暦に換算すると、1964年12月14日となり、ファンクラブでは、この日に祝いのコメントが投稿されている。

(本ブログ関連:”誕生日”)

・テレビ放送についてはどうだろうか。韓国の通常放送の契約をしていないので、PCで見られれば幸いだ。

先日のインタビューのように、現在充填期のようで、次へ向けて英気を養っている。

2015年11月9日月曜日

列仙伝 卭疏

中国には、大袈裟な表現が好まれる中でも、悠々として奇なる仙人がいた。秘薬を操れたのも彼らだろう。古い本草学(者)のようなものか、そんな一人である「卭疏(きょうそ)」について、仙人のカタログ書のような「列仙伝」に語られている。

石由来の長寿の秘薬、石鐘乳を煎じたようだ。一体どんなものか気になり探してみた。「鑑賞中国の古典 抱朴子・列仙伝」(角川書店)の「列仙伝」(平木康平、大形徹)に、次のような解説がある。さらに、<四言八句の讃>が付加されていて、「五石」が記されている。(平凡社版の「列仙伝・神仙伝」には、この讃はなかったけれど)
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卭疏(きょうそ)者、周(しゅう)封史(【諸侯の領土の区域を定める官】)也。能(よく)行気(気をめぐらし)錬形(形を錬り【肉体を鍛錬する】)、煮石髄(石髄を煮て)而服之(之を服す)。謂之(之を謂う)石鐘乳、至数百年、 往来入(往来して入る)太室(【河南省登封県の北に連なる嵩山の異称、その一つにある】)。山中有臥石・牀枕焉。

八珍促寿 五石延生    山海の珍味を好めば寿命縮まる、されど五石は長寿の秘薬
卭疏得之 錬髄餌精    それを卭疏は手中におさめ、石髄練って精粋を摂る
人以百年 我享千齢    人は願う百歳の寿、わしの齢はすでに千歳
寝息中嶽 遊歩千庭    奥山に身を横たえて静かに憩い、そぞろ歩かん仙人の庭
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解説によれば、「石鐘乳」は鍾乳石であり、また「五石」は五種類の石(長生薬、丹砂、雄黄、白礬石、磁石)を混ぜて錬りあわせて服薬したそうだ。また、「行気」・「錬形」の呼吸法についても触れて、服薬と合わせてバランスが取れているという。

・鍾乳石から垂れる水を飲むならば、さぞや硬水だったろうし、さしずめ、Volvicといったところか。

・五石の「長生薬、丹砂、雄黄、白礬石、磁石」とは具体的にどんな石なのだろうか。これから調べたい。

五石について、「抱朴子」は「丹砂、雄黄、白礬石、曾青、磁石」(広辞苑)という。また、「五石散」というものがあって、「鍾乳石、硫黄、白石英、紫石英、赤石脂」を練り合わせた薬を指すようだが、中毒性があって絶えず散歩の必要があったことから「散歩」の語源になったという。そう考えると、上記<四言八句の讃>にある「寝息中嶽 遊歩千庭」はちょっとあぶなっかしい気がする。

2015年11月8日日曜日

立冬2015

自然を直接実感せず、街の飾りで「季節」を知ることが多い。カレンダーをめくるのが優先する。木立の変化に目覚め、風の変化を肌で感じる生活から随分遠い。日々、その兆しを探そうとつとめてはいるが、季節や年という単位で先走る。

今日は二十四節気の「立冬」。陽暦で生活をしていると、立冬の言葉に馴染みにくさがある。むしろ、秋分と冬至の真ん中といった方が分かりやすい。

(本ブログ関連:”立冬”)

二十四節気も、日毎変化が積み重なった結果だ。久し振りに、間を置いてこそ気付くことも多い。人は、どうやら、大きな区切りの中で理解するもののようだ。

一足飛びに、冬の不思議の国を巡ろうか。雪が積もった銀世界、これならいつもと違うってことが百も承知。わくわくさせる夢と希望が待っている。もう一度、子どものころの興奮あふれた世界へ舞い戻り、Dean Martinの歌う「Winter Wonderland」(1934年、作詞Richard B. Smith、作曲Felix Bernard)を聴いてみよう。なぜか私には、彼の世代が歌うクリスマスがお似合いの気がする。(まだクリスマスが街頭にあった時代のことだ)


(Youtubeに登録のL. Heitmannに感謝)

2015年11月7日土曜日

(資料) イ・ソンヒとのインタビュー(連合ニュース)

イ・ソンヒとのインタビューが、連合ニュースの記事「<インタビュー> イ・ソンヒ 『歌は無心の作業・・・「Jへ」は今聞いても胸がキュン』」(11/4、キム・ボギョン記者)に掲載された。若いファン層への感謝、後輩歌手たちへ助言、そして彼女の今後についてなど、31年間つちかった音楽経験を交えて聞くことができる。

イ・ソンヒの語り(=音楽観)には独特のものがあるという。以前、別のインタビュー記事にも、成程とうかがい知るような記述しているものがあった。今回は、どうだろうか・・・記者も苦心されたようだが、読み進むうちにイ・ソンヒらしさがやっぱり感じられてくる。妙に安心する。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒ インタビュー”)

ところで、現在は充填期のようで、次ぎのアルバムまで時間がいるようだ。少々待ち遠しい気がするが楽しみである。

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「音楽は私を記憶する人との疎通(コミュニケーション)・・・若いファンたち感謝する」
「声は私だけの楽器・・・他の人が出てきて違うことを認めなきゃ」

イ・ソンヒは、誰もが自信をもって「国民歌手」と呼ぶことができる、数少ない歌謡界の巨匠中の一人だ。

1984年、「第5回 江辺歌謡祭」で、「Jへ」で大賞を獲得してデビューした彼女は、翌年1集のタイトル曲「ああ! 昔よ」を始め、「秋の風」、「分かりたいです」や、「私はいつもあなたを」、「ひとしきり笑いで」などをヒットさせて、1980年代の代表的ディーバ(歌姫)として座をつかんだ。

彼女は小さい体躯から出る爆発的な歌唱力でファンたちをひきつけて、初の<姉さん部隊>(=中高女学生ファングループ)を誕生させたりもした。

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1990年代にも着実に新曲を発表したイ・ソンヒは、2011年、米国カーネギーホールのアイザック・スターン・オーディトリウムで単独コンサートも開いた。昨年(2014年)には、デビュー30周年を記念して、正規15集「セレンディピティ(Serendipity)」を発表した。

最近、イ・ソンヒを、ソウル江南区清潭洞の所属事務所(=フックエンターテインメント)の建物で会った。TVよりはるかに若く見られる容貌に記者が驚くと、すぐに彼女は、「私がTVによく出てないからよ」と冗談を言った。

まず、最近の近況を尋ねた。イ・ソンヒは、昨年3月アルバムを発売するやいなや、全国ツアーコンサートを開いて1年余りをファンたちのそばで過ごした。今年には、光復70年記念番組のKBS「私は大韓民国」に出演して「1945合唱団」を指揮したりもした。

「いま、やっとスケジュールがまばらになりました。昨年は一年中公演して、今年は『私は大韓民国』を準備するために緊張を解くことができませんでした。番組が終わって、およそ2週間患いました。そうして、ちょっと日常を楽しんだのです。休む時、したいことなどをリストに書き込みました。今は、それらをしに歩き回るのに忙しいですね。 (笑い)」

彼女は歌手として31年を生きた。短くない時間の間、彼女は歌と喜怒哀楽を一緒にこなした。イ・ソンヒにとって、音楽はどんな意味であろうか。気になってきたところで、単刀直入に尋ねた。

音楽は一種の疎通(=コミュニケーション)でしょう。歌う人は、歌で自分を表現します。私が過ごした時間にどんな考えをし、何をいいたいのか、結局、歌で語るんです。結局、私を記憶する人とずっと疎通(=コミュニケーション)するんです。」

数えきれないほど舞台に立って、ファンたちに会いながら、おのずから記憶に残る瞬間も多かったはずなのに。質問を投げると愚問賢答(=愚かな問にも賢く答える)が返ってきた。

「留めておく性格ではないので、何かを入れれば続けて注ぎます。歌もそうですよね。感情を続けて注ぎます。それで、うれしくても悲しくても、感情はその瞬間にだけ残るもののようです。そうするうちに、あえて過ぎ去った時間に何が残ったかどうか執着しない方です。」

このような回答を聞くと、気軽に他の質問をするのがためらわれた。だが、質問を止めることができなかった。発表した曲中、最も愛着がある曲を尋ねると、自然に「Jへ」という回答が出てきた。

「私はこの質問を受けたら、いつも『Jへ』と答えます。このように淡々と話しているけど、本当に『Jへ』は、今聞いてもキュンとします。おのずから過ぎた時間を振り返り見させる歌なんです。」

この他にも、最近、彼女の口の中で巡る歌がある。昨年発表した15集収録曲「今になって(이제야)」だ。「その時は分からなかったのでしょう/すべてを知っていて思ったが、愚かにも/感嘆符、休符も、そこに込められていることを」、という歌詞がなぜか胸に迫る。

「最近、私が元々進んだ方向からちょっと違うように、方向を定めました。そのように決めて見たら葛藤が多くなりました。すると、私も気づかぬ内に、この歌を口ずさんでいましたよ。この歌をしきりに歌うのを見て、私の視線が変わったことを感じます。」

イ・ソンヒといえば浮び上がるイメージがある。短いショートカットにメガネ、ズボン、スーツがそれだ。常にズボンだけはく彼女を見て、ファンたちは「イ・ソンヒの脚に大きい傷跡がある」とひそひそ話したりもした。彼女は、デビュー後7~8年間、素顔で放送に出たりもした。

一つのスタイルに固執した理由を尋ねると、「その時は、ただそれが良かった」という素っ気無い反応が返ってきた。

「今考えれば大したことないのに、その当時、瞬間瞬間ぶつかることが多かったです。化粧もして、メガネも外せというのが何となくいやだったんです。『歌う人が好きなスタイルで行くべきなのに、私がなぜあの人たちに従って行かなければならないのか?』という問いを持ち続けました。それで、固執半分、反抗心半分でずっと押し進めたら、そのまま私のスタイルに固まったんです。ところで、そうなるとそのスタイルが嫌いになりましたよ。(笑い) そのまま、その時その時やりたい通りに自然に従ったようです。」

イ・ソンヒの公演会場に、中壮年層の観客だけ訪れると考えると相当な誤算だ。彼女のコンサート会場にはいつも20~30代の観客で賑わっている。特に映画「王の男」のオリジナル・サウンドトラック(OST)に収録された「因縁(인연)」という歌が大ヒットを記録して、彼女は若い世代に名前を知らせた。イ・ソンヒが手紙好きという話を聞いて、直接、書いたファンレターを送る少女ファンも多い。

「公演会場で、観客席を見ればびっくりです。以前よりも観客が若くなっているとはっきりしてるんですよ。とてもありがたいことです。」

「最近、若いファンの意思表明が本当にどんどん目立ちます。公演レビューの掲示板も念入りに調べる方ですが、反応を見ればとてもおもしろいです。(笑い) 私を<姉さん>と呼ぶ中学生ファンがいるのだけど、自分のママも私を<姉さん>と呼ぶといいましたよ。そうしたところ、『うちの母さんも<姉さんファン>なのに家系図がどうなるのでしょう?』と尋ねたこともあります。」

イ・ソンヒは、MBCオーディション番組「偉大なる誕生2」で、メンターを引き受けるなど、後輩たちにも格別の愛情を注ぐ。しかし、最近の歌謡界を見ると物足りなさも大きいといった。<江辺歌謡祭>出身である彼女は、最近の雨後の竹の子のよう生じるオーディション番組を見ると、特にそのような感じを受ける。

「当時、<江辺歌謡祭>や<大学歌謡祭>は、私たち同士の祭りのような感じでした。もちろん決勝、準決勝と進んで競争したりしたが、みんな歌が好きだったし、お互いが違うということを認めましたよ。ところで、最近は本当に競争だけします。皆がみな違っているんですけど、私だけ頑張らなきゃという考えをするようで残念です。1、2位を獲る瞬間に歌手になるのではないのにね。」

彼女は話を続けた。

声は私だけの楽器です。他の人が私より歌をもっと上手だとしても、私の場所を持つのではありません。全てみな違った声を持っていますね。自分だけの声を持ってこそ、より豊かに生きていけます。グルメ通りを考えてみてください。一つのレストランでなく、多様なレストランが集まっているので、多くの人が訪ねてくるのじゃないの。他の人が出てきて、違うということを認めれば、全てみな上手くやれます。」

イ・ソンヒは、後輩たちが尊敬して似たがる巨匠の中のひとりだ。それだけに最近のTVをつければ、イ・ソンヒの歌をリメークしたり真似て歌う歌手をよく見かける。そのような姿を見て、本来本人はどんな思いがするのか気になった。

「最近の後輩たちは本当に音楽が上手いです。以前には良いものを表現する方法も知りませんでした。また、音楽される方の多くが付き従う音楽をしましたよ。ところが最近は、音楽で上手く表現する世代になりました。私の歌を、後輩たちが歌ってくれたら余りにもうれしいです。それを聞いて、『あんな方向にも歌を歌うことができるのだろう』と感じたりもします。しかし、私が歌った方式そのままに歌う後輩を見ると、上手いとは別にちょっと物足りないです。」 そのような後輩に、先輩としてしたい助言はないだろうか。

「とにかく経験するんです。編み出すというのは積もることで、積もれば吐き出すことができなければなりません。音楽をする人たちは、音楽に吐き出さなければなりません。もちろん競争が全てではないが、そのような過程を勝ち抜くのも必要です。だが、記憶しなければならないものがあります。人のために、私がだめなものなんてありません。人もなるし、私もなるんです。」

インタビューを進めて、31年(=デビュー31年目)の内面はやはり違うという考えが頭の中を離れられなかった。急がず自身の考えを一つ一つ明らかにする、彼女のカリスマに圧倒される瞬間も多かった。一時間余りのインタビューを終えて、今後の計画をたずねた。「小さい巨人」イ・ソンヒの答はやはり特別だった。

「以前には、男性と女性の声を同時に持つ少年のような声だったとしたら、今は女らしい声になりました。そうするうちに、そこに合った歌を歌うことになったし、声も澄んだのですよ。私は今、50代以後にどんな歌を歌うのか悩んでいます。次のアルバムですか? アルバムを出すというのは無心にする作業です。それで何かいっぱい満たしてようやく、結果に結び付けられます。ところで今は、満たせる時間が長く続かなかったです。それで当分は計画はありません。」
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(Youtubeに登録のqueen sallyに感謝)

2015年11月6日金曜日

(雑談)自然の美しい形

石好きの理由に、鉱物結晶の美しさがある。直線的で平らな表面をもった様々な晶系が作り出す不思議な世界だ。きれいな結晶にいきなり巡り会うことができるとすれば、鉱山業に従事する者の特権で、坑道で遭遇するケースだろう。そうでない、アマチュアは、選鉱した後に捨てられたズリの斜面で探すだけだ。

結晶を持つ母岩を見当づけて割る。運が良ければ出会いがある。ベテランは闇雲に割るわけではなく、母岩の特徴も知っているので確率も高い。そうでない者は、手当たり次第割るわけで、やがて疲労と空しさが押し寄せて来る。

自然の中で、美しい結晶を探すとき、自然と相似な姿を求めているのだろうか。山、谷、沢といった複雑な地形を考えると、美しい結晶は異様であり異質である。自然の景観とは違った、シンプルでめったに目にすることのない形だ。自然金は金ということで貴重だが、そのままの形は美しいものでない。むしろ水晶の六角柱や玄武岩の節理の方が驚異的なのだ。奇妙なことに、その姿を人工的と例えようとする。

人間の住居で当り前にしていることに、窓は四角で、柱は垂直で、床や階段は水平である。また、ディスプレイだって四角の直線で囲っている。自然の美しさを口にしながら、実際は直線的なものや、水平で平らなものを求めている。現代的だからというわけでもない。昔から、人間の生活には、直線的な造形が採り入れられている。そうでないと不安定で落ち着かない。

自然を唱えているが、僕らは他の動物たちとは違った観念で実際の生活をしているようだ。ぐにゃぐにゃな空間、ルールのない社会に耐えられそうもない動物なのだ。

2015年11月5日木曜日

イ・ソンヒ「冬哀傷」

久し振りに公園に寄った。紅葉は3分ほどか。それでも、一部に葉がすっかり枯れて、風に舞わせているものもある。樹下に積もって絨毯となり、幼児たちが持ち上げては舞い散らす。おもしろくて、うれしくて、何度も何度も楽しんでいる。

公園の紅葉が染まりきれば、いずれ雪景色、純白の世界になる。雪が珍しい幼ない子どもたちは再び、枯葉のときのように舞い散らすことだろう。風景が好奇心の対象でしかない、世界を感性で理解するのだから、うらやましい。

大人になると思い入れが深く、雪景色も感傷の舞台になる。きらめく澄んだ歌声を聞かせる、イ・ソンヒの5集所収の「冬哀傷(겨울 애상)」(1989年)は、聴くものをそんな世界に同化させる。でも、美しいこの作品ができたのは、ソン・シヒョンの家で、熱い即席ラーメンを作る最中だったなんてことは・・・。


星明かりに澄み映える  私の悲しい顔よ
雁が鳴きながら  飛び去る  空を  見る

懐かしさ雪のように積もり  丘を転がり超えて
青い月明かり  降り注ぐ  私の空っぽの  庭に
*
風は木の葉を 吹きたてて  消えたが
なぜ痛く懐かしい小船は  私の胸に浮かんでいるのか

消すことが  できないのか
冬になるとよみがえる姿

青く冷たい  私の愛
凍ってしまった悲しい後姿

(*以下繰り返し)

凍ってしまった悲しい後姿


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2015年11月4日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 瞑想の音楽

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(10/28)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、<瞑想>にふさわしい3曲を紹介した。

始めに、瞑想の効用と風流音楽について次のように紹介された。
・瞑想は、ストレス解消や血液循環が良くなり、肉体疲労や病を回復させる力があるという。集中力が上がり、憂鬱な気分から解放されるともいう。しかし、本当に効果があるか確認する方法はない。直接体験して確かめることになる。瞑想方法は多様だが、共通するのは集中することだ。頭の中で思いを一ヵ所に集中する必要がある。最初は簡単でないが、静かな音楽と、そのリズムに集中するのもひとつの方法だ。

▼ 撥弦楽器の伽耶琴(カヤグム、가야금)演奏の代表的風流音楽「霊山会相(영산회상)」から、「上霊山(상령산)」を聴く。行間を読むように響く。

次に、撥弦楽器の「伽耶琴」や「玄琴(コムンゴ、거문고)」の奏法、仏教音楽「梵唄(범패)」について次のように説明された。
撥弦楽器の、「伽耶琴」や「玄琴」は、「スルテ(술대)」という絃をはじく竹撥(ばち)、または指で音を出す。西洋楽器のバイオリンと違い、弓で一度音を出すとすぐに消えるため、遠ざかる音を装飾音(꾸밈음、Trill)で飾ると、長く響くように感じる。「上霊山」の場合、ゆっくりした速さと、音階の少ないのが特徴。一曲の演奏に、初めから終わりまで集中が必要、瞑想でもある。
・仏教音楽の「梵唄」も同様である。中でも、歌詞を長く解釈しながら歌う、サンスクリット語からなるもっとも長い歌「ジッソリ(짓소리)」は、五、六文字で一時間歌うこともある。母音を長く伸ばすため間違えると大変で、集中しなければならなかった。

▼ 梵唄「ジッソリ」から「挙霊山(거영산)」を聴く。遍路歌ではないが、聞き入っていることに気付く。

・九文字で構成される歌詞を二度繰り返し、もう一度繰り返すとき一文字だけを長く歌う。大変短い歌詞だが、意味のない母音をリズムに合わせて歌う。長い歌詞のパンソリに匹敵するくらい難しい。僧侶の修行のひとつの方法ともされる。

(ちなみに、イ・ソンヒの父は、梵唄の指導者といわれている)

最後に、(韓国の)伝統音楽と瞑想の親和性について次のように紹介された。
・西洋の音楽は和音が多い反面、伝統音楽はメロディーがシンプルなため、瞑想に役に立つともいう。

▼ 「コル・ニドライ」(Max Bruch作曲)の、牙筝(アジェン、아쟁)とピアノ演奏(2005年、明洞聖堂大聖堂)を聴く。チェロも哲学的といわれる・・・が。

2015年11月3日火曜日

文化の日 2015

文化の日」の祝日というに、よほど文化的な生活と無縁なのか、本ブログに記念日について記述がない。休み気分に浮かれて、外出したり、趣味だったりしていたことにようやく気付いた。

<文化>といえば精神文化、<文明>といえば物質文明。「文化の日」こそ、人々の精神の高揚に貢献し、伝統文化の発展に努めた人々に栄誉(「文化勲章」など)が授与される日である。

文化勲章受章者リストを一覧すると、この制度の開始(1937年-昭和12年度)以来、日本をリードした人々が分かる。

ところで、今日は祝日ということで、教室が休み。気が緩むことに躊躇なく、だらだらと一日を過ごした。

2015年11月2日月曜日

ちあきなおみの「黄昏のビギン」

午前中の雨脚に、天気予報の通り夕方まで降るのかと気が滅入りそうだった。昼過ぎどうやら治まってくれた。とはいえ、冬並みの寒さが一日続いた。

雨が止んでも、空はどんより重く、晴れ間はついに訪れなかった。そんなとき、気分を変えてくれる歌が欲しくなるものだ。かといって、あけっぴろげな元気を求めていたわけではない。

今も絶大な人気を誇りながら、自らステージを去った歌手、ちあきなおみの歌「黄昏のビギン」(作詞:永六輔、作曲:中村八大)は、その昔、コーヒーのコマーシャルにも歌われて、ちょっとした大人気分だった。(原曲は、1959年の水原弘の歌だった)

ちあきなおみの歌で、私のお気に入りは、「紅とんぼ」(作詞:吉田旺 作曲:船村徹)だ。なぜかって、カラオケでは、イ・ソンヒの歌とともに歌わせてもらっているから。新宿駅裏の小さな飲み屋が店仕舞いする。女将と客たちの別れ歌だ。


(Youtubeに登録のtoshiyuki maeda、HirooTanakaに感謝)

2015年11月1日日曜日

イ・ソンヒ、50歳になったら・・・

テレビ画面で、可憐にして清楚で淑やかに見える女性タレントが、インタビューを通して、案外しっかり者であるのを見受けることがある。考えてみれば、芸能界をしっかり生き抜いているわけで、柔なはずがない。強い意志がなければ注目もされないだろうと気付かされる。

イ・ソンヒも、どこかそんなところがあるようだ。歌も上手かった中学時代に、体育教師に「サニー」のあだ名を付けてもらったという。体育会系の朗らかさがあったのだろう。デビュー時に、歌手が並んだステージに登ってきた酔っ払いを独りで払いのけている映像がある。まさに、ボーイッシュなイメージがそのまま重なる面もあるが。

アジア・トゥデイの記事「イ・ソンヒ、この時代の真のメンター(指導者)・・・歳を早くとりたいという(映画評論家・コラムニスト)ホ・ジウン(허지웅)に言った忠告は?」(10/30、バン・チョンフン記者)は、イ・ソンヒのある意味<さっぱり>した仏教的価値観を垣間見る気がする。

イ・ソンヒは、数段大人だ。

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イ・ソンヒが過去、ホ・ジウンにした忠告が再照明されている。

イ・ソンヒは、過去放送されたSBSスペシャル「私は生きる-歌手イ・ソンヒ、大韓民国を慰める」で、自身のレコーディングルームを訪れたホ・ジウンに暖かい助言をかけた。

当時、放送でホ・ジウンは、「さまよっていた時代に、先生の歌を聞いて気を引き締めた」と告白し、それに対してイ・ソンヒは、「三十七歳だったらいいとき。いいなあ」と励ました。

ホ・ジウンは、「大学時代からの夢が、50代になることだった」とか、「歳を早くとりたい」理由は、「五十になったら心乱れないものだと思っていた」と言及した。

これに対して、イ・ソンヒは、「私も幼い時から、50になれば人生に対して解脱できる歳だと考えて早く大人になりたかった」といいながらも、「50になってもそうじゃない人にはならない。今がその時だと考えて、早く捨て去るべきことは捨て去り生きるのが良い」と和やかさを醸し出した。
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