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2017年5月31日水曜日

「イディッシュの民話」

単純なデザインを始まりにして、「いれこ」に繰り返していくと、現実の自然景観のような複雑な形になる。あるいは空想だが、物質を微細に奥深く探っていくと、その先に別の空間(次元)が存在する、無限な「いれこ」構造の世界観が好きだ。

先日のブログで、落語に「思い込みと逆転世界」(例えば「粗忽長屋」、「頭山(あたまやま)」)があると記したが、今日、Amazonから届いたベアトリス・ヴァインライヒ(Beatrice  Weinreich)の著「イディッシュの民話(Yiddish Folktales)」(秦剛平訳、青土社)に、こんな話(第3話「不幸は不幸を呼ぶ」)が載っていた。説教調だが、物語の場面(構造)に興味深いものがある。
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昔あるところに、貧乏な男がいた。物乞いして歩くのがいやでたまらず、そのことを神に訴えた。そのため、彼の背中にこぶができて大きくなりはじめ、そればかりか、そこからはまた男が出てきて大きくなりはじめた。その男には口もついていた。乞食が一切れのパンを食べようとすると、背中の男がそれを奪ってしまうのだった。

そこで乞食は祈った。「主よ、消したり書いたりしないでください。すべてあるがままにしておいてください」

だから人は、自分が不幸だなどと決して口にしてはいけないのです。不幸はさらに不幸を呼ぶからね。
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KBS WORLD「国楽の世界へ」 ブランコ(鞦韆)

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(5/24)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、「端午節句」の楽しみ「ブランコ(그네:鞦韆しゅうせん)」に関連した曲を紹介した。

始めに、端午節句の楽しみブランコと、パンソリ「春香歌(춘향가)」について次のように紹介された。
・田植えが終わる頃、5月5日は端午節句だ。旧暦の場合、今年は5月30日となる。この時期、各地に様々な風習がある。仮面をつけて踊る「仮面踊り(탈춤)」や、江原道の江陵では、シャーマニズムの山神への祭儀(굿)がある。男は市場に設けた舞台で、民族競技「相撲(씨름)」をする。女性はブランコを楽しむ。パンソリ「春香歌」は、鮮やかな春の日、地方官の息子「李夢龍(이몽룡)」(=李道令이도령)が、ブランコに乗る妓生の娘、美しい「春香」に一目惚れする愛の物語だ。

▼ 「李夢龍(道令)が、春香がブランコに乗る姿を見る場面( 이도령이 춘향이 그네 타는 모습을 보는 대목)」を聴く。余程に元気にブランコをゆらしたのだろう。

次に、詩人「徐廷柱서정주)」(1915年~2000年)の「鞦韆詩(추천사)」について次のように紹介された。
・詩人徐廷柱は、春香がブランコ(鞦韆)に乗る場面を「鞦韆詩」にしたためた。副題に「春香の言葉」がつく。小間使いの香丹(향단)に、ブランコを空に向かって力強く押して欲しいと歌っている。届かぬ夢への渇望を、ブランコに託したのだろう。

▼ 「鞦韆詩」を歌にした曲「鞦韆の詩(추천사)」を聴く。空を切る、風を切る、海の彼方へ今様に。

最後に、春香と李夢龍初めて出会った、端午の時候について次のように紹介された。
・民は生活のため、朝早くから畑や干潟で働いた。一方、豊かな家の女性は閉じこもるように生活した。最近、端午の頃は夏のようだが、昔はのどかな春の侯だった。山緑の美しい端午の季節に、ひさびさに外出した女性たちがブランコに乗る解放感は、想像を超えはず。春香と李夢龍がすぐ恋に落ちた背景に、端午の時期に初めて出会ったからという理由もあるだろう。

▼ しだれ柳の合間、空を切って自由を感じる女性たちを描いた南道民謡「しだれ柳(휘여능청)」を聴く。まさに溌剌。

・端午節句に、韓国では相撲やブランコ、日本では鯉のぼりを立て祝うなど、各々違った風習が興味深い・・・とのこと。

2017年5月30日火曜日

アナベル・リー

青春はなつかしい。でも、そんなにいい思い出がない。なければ作ればよい。でも、美しいままに密かに置いておきたいものもある。

昔、テレビのSF番組「アウターリミッツ」で、たしか「グリーンスリーブス」の旋律が流れ、森の奥深く迷った少年が、古式な館にひとり住む少女と出会う。つかの間のことだった。時空はやがて戻り、朽ちた館を残して少女は消え去る。

(本ブログ関連:”アウターリミッツ”)

ブラッドベリのSFファンタジー集「10月はたそがれの国」に納められた「みずうみ」では、新婚旅行の途中に立ち寄った湖のほとりで、若者は子どものころに、ここで一緒に遊んだ少女の姿と再会する。昔、水死したときのままの少女と。

(本ブログ関連:”10月はたそがれの国”)

始まりになぜかPPMの「パフ」を思い出す、エドガー・アラン・ポーの詩「アナベル・リー」に、やはり少年の思い出作りが聞こえてくる。木枯らしの夜に命を奪われた少女を回想する。どこか納得に似た、甘味で残酷な魔法の世界を感じる。


(Youtubeに登録のPsycheDeliaInMotionに感謝)

2017年5月29日月曜日

(雑談)遅れていくこと

若いとき、時代遅れになるのを恐れた。今は、時代を超越すると妄想している。

日記代わりに、このブログを毎日更新している。少なくとも一日一回の更新でよい。

Twitterにユーザー登録したがそのまま。書き込むタイミングがわからないのだ、

フェースブックにいたっては、全く知らない。第一、周りで使っている人がいない。

そう、身近で十分なのに、ネットにまで友だち作りしようというのだろうか。

もしかしたら、ガラケーで充分と思ったころ、つまずいてしまったのかもしれない。


ちゃんと続けていることもあるし、新しく始めたこともある。まだまだだ。

2017年5月28日日曜日

イ・ソンヒの「五月の陽射し」

5月には、イ・ソンヒの5集所収の「五月の陽射し(오월의 햇살)」(1989年、作詞:ユン・ハンギ、イ・ソンヒ、作曲:ユン・ハンギ)を聞かなくては。この5集、昨日(5/27)記したソン・シヒョンの回想の通り、過去史と因縁を持っている。さらに直接的でもある。しかも、イ・ソンヒは、このまま1991年のソウル市議会議員への立候補と当選まで突き進むことになる。そして大きく政治の振幅を経験する。

(本ブログ関連:”五月の陽射し”、”ソウル市議会議員”)

そんな時代背景とは別にして聞けば、五月の陽射しは力強く差し込んでくる: 広い意味でのレクイエムといえる。彼女の歌唱力に、そんな普遍性があると確信する。彼女が格別の愛着を持った曲である。


どこかで呼ぶ声に  振り返りみれば
見えるのは寂しい通りを  吹く風だけど
風に乱れる  髪をなであげながら
歩んだ足取り止めて  また振り返るよ
*
暗い夜一緒だった若い声が  虚空に散らばって
朝が来るまで歌おうとした  友よどこへ行ったのか
留まっていた束の間  残されたきみのその声
五月の陽射しあふれる日  私たちの心暖まらん

(*以下繰り返し)

留まっていた束の間  残されたきみのその声
五月の陽射しあふれる日  私たちの心暖まらん


(Youyubeに登録のKoreanMusicSubsに感謝)

2017年5月27日土曜日

「ひとしきり笑いで」の背景

作詞・作曲家であるソン・シヒョンは、イ・ソンヒの初期アルバム(4~6集)にかけて大きく関わり、彼女の代表作を送り出すのに貢献した。昨年、ソン・シヒョンがカムバックしたとの記事があり、本ブログに紹介した。

(本ブログ関連:”ソン・シヒョン”)

このたび、ソン・シヒョンの新たなミュージカル曲を紹介する、東亜日報記事「ソン・シヒョン 『ハーグ特使たちの胸詰る話に二晩徹夜しました』」(5/23、ソン・ヒョリム記者)の中で、イ・ソンヒの作品背景について知る部分があり次の通り抜粋する。
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(1980年の「光州事件」)「5・18民主化運動」を思って、(イ・ソンヒの歌である)「ひとしきり笑いで(한바탕 웃음으로)」(作詞・作曲、5集、1989年)を作りました。「愛が散るこの場所(사랑이 지는 이 자리)」(作詞・作曲、4集、1988年)は、別れる男女がベンチに座ってどんな会話をするか想像して書いたし。
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これらの作品発表は、1980年の事件から8、9年後のことであるが、同時に、大きな変換を迎えた(1987年)の翌年・翌々年にあたる。これらの意味も含めて、作品背景があったといえるかもしれない。ちなみに、イ・ソンヒは、5集(1989年)にからめて、光州事件(1980年)の地を訪れた際、次のような苦い経験をしている。
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私が直接行ってみた光州を素材に、映像ビデオを製作しようとしたが、色々な理由で失敗に終わってしまった苦々しい記憶・・・
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実は、「苦々しい記憶」とは何だったのか、ネットに詳細情報を見つけられない。もう少し時間を待つことにしよう。

(付記)
ミュージカルに登場する「ハーグ特使」と、民謡アリランの採譜者でもある米人「ホーマー・ハルバート」との関係(連係)について以前ブログで紹介した。これがホーマー・ハルバートの個人的アクション(正義感)なのか、使命(密命)を帯びた(暗躍)なのか・・・謎解きが面白そうな素材でもある。

2017年5月26日金曜日

おバカな村

この世に、とりあえず納得できることなら何でも信じてしまう頓珍漢な人がいて、そんな人たちの住む村や町があるという。先日(5/22)、冬場に家々の暖炉から熱気が排出して上空に溜まった結果、「夏が暑い」のだと思い込んでしまった村人が登場する童話について記した。

そんなおバカというか愉快な人々が住む(ポーランドの)村ヘルムについて、アイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)の巻末に訳者解説があり、他にも似た町があると紹介している。
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民話のなかで、おかしな主人公たちの住む町としては、イギリスではゴタム、オランダにはカンペン、イタリアではクネオ、ドイツではシュリートブルクなどがある。
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そこで、ネットに探してみたところ、唯一、「イギリスのゴタム村」を舞台にした昔ばなしの紹介ページがあった(ブログ「アマミツル空の色は Ⅱ」に感謝)。ゴタム村の人々もなるほどと思わせる粗忽振り。それ以外の町については、これからゆっくり探していきたい。

日本におバカな村を舞台にした昔ばなしがないものかと考えた。それらしい所が思いつかない。でも、おバカな人々が出てくる話しがある。「落語」の長屋であり、熊さん八さんの世界だ。イディッシュ語の昔ばなしに通じる、思い込みと逆転世界といったおバカな物語りだ。(例えば「粗忽長屋」、「頭山(あたまやま)」)

(本ブログ関連:”(雑談)本当は誰なの”)

イディッシュ語テキストの代表である「College Yiddish」の著者ウリエル・ヴァインライヒ(Uriel Weinreich)の妻、民俗学者のベアトリス・ヴァインライヒ(Beatrice  Weinreich)の著「イディッシュの民話(Yiddish Folktales)」(秦剛平訳、青土社)をさっそく注文した。楽しみだ。

2017年5月25日木曜日

始めの7歩 イディッシュ語

情報通信のルールに、OSI参照モデルがあって、コンピュータの通信機能を7つの段階(階層)に定義している。まずコンピュータ間をつなぐケーブル間の信号から、ネットワークの経路やデータ伝送の仕方(区切り方・まとめ方)から、通信アプリケーションまで、規約化した国際標準だ。これを難しく、「ネットワークアーキテクチャー」なんていったりする。(どうも、欧米人は7つに区分するのが好きなのかもしれない・・・)

コンピュータ同士がデータをやり取りするためには、互いに共通した、7つの階層のルール(プロトコル)を持ち、それを満足して可能になる。プロトコル(例えば TCP/IPなど)は対話の基本ルールだ。(ところで、「国際儀礼」を「プロトコール」といったりする・・・円滑にする知恵か)

イディッシュ語教室に通って、今日で7歩目(7日目)。せっかくの「7」が付く日なのに、いまだイディッシュ語の理解(プロトコル?)が定着していないようで、授業の進展に迷惑をかけ続けている。

今回は、先生紹介のネット公開教材ソフトの「レベル1-4」(?װאָס האָסטן)を中心に、ピクニックでサンドウィッチやすし作りの話題から、「持つ(האָמן)」の現在人称変化、名詞の単・複数形、二重否定(~ נײן, איך האָב נישט/ןיט קײַן)など。

2017年5月24日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 孔明歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(5/17)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、「三国志演義」をもとに「孔明歌(공명가)」など関連した曲について紹介した。

始めに、「三国志演義」に武功が描かれた「諸葛亮(孔明)」について次のように紹介された。
・「三国志」を一度も読まぬ人を相手にしてはならぬ、逆に、三国志を三回以上読んだ人も相手にしてはならぬといわれる。無知と賢さにかなわぬからだ。ここでいう三国志は、史書でなく、逸話など取り込んだ「三国志演義」を指す。長い間にある様々な事件や人物が描かれる。本分を守った者、ずる賢く利益にこだわった者、空しい権力争いに命を失った者もいた。韓国でも漫画、文学作品、歌として親しまれ、中でも孔明が南屛山で南東風を祈る場面はよく知られる。

▼ <南屛山で南東風を祈る孔明>を歌った西道雑歌「孔明歌」を聴く。淡々と南屛山の場面を歌う。

次に、孔明が高く評価した将軍「趙雲」との関係について次のように紹介された。
孔明は、「劉備」の信を得て活躍した人物だが、三国志で目立った活躍はないが、「三国志演義」で神出鬼没な人物として、「曹操」の軍を撃破する武功が描かれる。
・中国で最も長い川、長江を挟んで、「曹操」と「劉備・孫権」連合軍が向かい合った。曹操の船を火攻めしようとするが、南東の風が吹かぬ、まさに北西風の季節だった。そのとき、風の方向を変えたのが孔明。彼は南屛山に祭壇を築き、何日も祈り捧げると南東の風が吹き始めた。孔明がただ者でないと知った孫権の武将「周瑜」は、無理難題を突きつけて孔明を除去しようとしたが、これを予測した孔明は、将軍「趙雲」と準備した。

▼ <趙雲が、追撃する孫権の船に弓を射て孔明を逃がす>「趙雲弓射(자룡 활쏘다)」を聴く。音楽ドラマのよう。

最後に、赤壁の戦いをもとにした「蘇軾(蘇東坡)」の詩「赤壁賦」の歌唱について次のように紹介された。
・「趙雲弓を射る」は、パンソリ「赤壁歌」の「赤壁の戦い」の場面とともに、最も緊迫する場面だ。赤壁は、曹操が劉備・孫権の攻撃に敗れた所で、後に、中国北宋時代の代表的詩人「蘇東坡」が赤壁で「赤壁賦」の詩を作った。人生の空しさを表現した詩で、韓国では、短歌(단가)や誦書(송서)の歌唱法で継承されている。
・赤壁で戦った兵士は、ほとんどが力のない民だった。故郷の家族を、切なく想ったことだろう。

▼ 誦書「赤壁腑(적벽부)」を聴く。力まず御詠歌のよう。

2017年5月23日火曜日

イ・ソンヒ 5/20 LAコンサートの雰囲気

もしかしたら鮮明な画像があるかもしれないが、5/20(日本時間5/21)に、イ・ソンヒが米ロスアンゼルスで単独コンサート「The Great Concert」を開催したときの、わずかながらYoutube映像がアップされた。会場の雰囲気だけでも味わってみよう。(今後、放送映像が公開されるかもしれないが。米国内のものはむつかしいかな・・・)

(本ブログ関連:”LAコンサート”、”ザ・グレートコンサート(The Great Concert)”)

イ・ソンヒのコンサートで、クライマックスに導く定番曲の一つ、「葛藤(갈등)」に呼応して観客がペンライトを振る様子がうかがえる。熱気がそのまま伝わってくるようだ。(Youtube登録者は米在住の方だろうか、著作権が重視される国にあって画面を慎重に選んだようにみえる。あくまで会場の撮影であって、彼女のアップはない・・・)

昨年来の「The Great Concert」のワールドツアー版の第一次というべきLAコンサートは無事終了したようだが、第二次にあたるシドニーコンサートが待っている。その9月が楽しみである。


(Youtubeに登録のEunice Kimに感謝)

2017年5月22日月曜日

ヘルムの夏が暑いわけ

「夏日」があたりまえになると、「真夏日」を期待したりする。まるで高い吊り橋から深い谷底を覗き見る、危ういものへ引き寄せられるように。昨日、近在で「真夏日」に到達した。今日は夏日に戻ったが、それでも暑かった。

       夏日   :日最高気温が25度以上の日。
       真夏日:日最高気温が30度以上の日。
       猛暑日:日最高気温が35度以上の日。

ところで、「夏がどうして暑いのか」。イディッシュ語作家、アイザック・バシェヴィス・シンガーの児童書「まぬけなワルシャワ旅行」(工藤幸雄訳)に所収の短編「ヘルムの長老とゲネンデルの鍵」にこんな明快な説明がある。

(本ブログ関連:”アイザック・バシェヴィス・シンガー”、”イディッシュ語”)

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(ヘルムの村の大長老グロナムが言った)
「ゆうべはまんじりともできなんだ - 夏がどうして暑いのか、そのわけを考えあぐんでな。やっと答えは出たが」
「して、どんな」と長老連が声をそろえた。
「つまり、冬のあいだ、村じゅうが暖炉をたく、するとその熱がヘルムぜんたいにたまる、おかげで夏は暑い、こういうわけじゃ」
長老連はうなずいた、ただぼんくらレキッシュだけは別で、こう聞きかえした。
「なら、冬が寒いわけは?」
「わかり切っとる」とグロナムは答えた。「夏場は暖炉に火をくべない、だからせっかくの暑さも冬まで残らん、ただそれだけのことよ」
長老連はグロナムのどえらい知恵をほめそやした。
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そう、夏が暑いわけは、探せば見つかる。むつかしく考えなければ答えは出る。あとはそれに同意するかどうかだ。日常はそれで充分だった。(今だって、そんなものかもしれない。それに、むつかしく考えれば正解というものでもないし・・・)

2017年5月21日日曜日

キャンプファイヤーの歌

昨日、キャンプファイヤーについて記した。いつの合宿だったか、若いころ、楽しさと期待を混じえながら参加したことがある。立ちのぼる赤い炎と白いきらめきに吸い込まれそうな錯覚をしたが、結局、楽しさは残っても期待は外れた。当り前だがが、ぎこちないキャンプファイヤーはそうやって終わった。

今の若者たちは、キャンプファイヤーをどのように楽しんでいるのだろうか。Youtubeを覗いてみると、意外と変わらぬ純情さに気付く。そりゃそうだ。輪になれば、みな目に入るわけで、それ以上は無粋というもの。

Youtube映像で初めて知った「洗濯の歌」がいい。一週間を日毎に、月曜日の「洗濯」に始まり、「すすぎ」、「脱水」、「物干し」、「取り込み」、「アイロン」と日を巡り、最後に日曜日に「デート」で終わる。どこか気持ちがこもった、くすぐったい展開だ。(子ども向けなどいろいろなバリエーションもあるようだ)

輪の中を廻って歌う女の子に合わせて、回りの反応も次第に高まる。「ボーイスカウト奈良第4団」のメンバー(若者たち)による、楽しいキャンプファイヤーのようで、久し振りに新鮮な感じがよみがえった。


(Youtubeに登録のにBSJ MC AAY感謝)

2017年5月20日土曜日

暑い夜には

天気予報の通り、今日は暑かった。そして、都心、都下とも軒並み今年最高の気温を記録した。気象庁のデータによれば、都内で「真夏日(30℃以上35℃未満)」になった観測点もあり、当地近在でも最高気温29.4℃に達した。

夕方、背中に西陽を背負いながら帰宅した。忘れていたジリジリした夏を思い出した。しんどい一日も、日が暮れれば落ち着く。とはいえ、明日はもっと暑くなるという。

遠い昔の暑い夜、すっかり忘れたものに、キャンプファイヤーがある。赤い炎が夏の熱気を吸い上げて空にのぼっていく。キャンプファイヤーを囲んでいると、空と地と、炎に照らされたみなが一体になる。そんな懐かしい記憶を呼び覚ますイディッシュ語の歌「キャンプファイヤーを囲んで(ארום דעם פייער)」(イディッシュ語英語訳楽譜)を聞いてみよう。日本人になぜか哀調を帯びて感じる独特な旋律が耳に残る。


(Youtubeに登録のVoix nomadesに感謝)

2017年5月19日金曜日

イ・ソンヒのLA公演案内 あと2日

KoreaDaily(中央日報のUS版)のHotDeal欄に、「国民の歌姫 イ・ソンヒ ザ・グレートコンサート」の米5/20(土)公演のポスター、座席チケット、場所など掲載されている。

◆公演日:2017年5月20日(土)7:00 pm(→ 日本時間 5月21日 11:00)
◆公演場所:ファンタジースプリングスリゾート(Fantasy Springs Resort Casino
◆チケット:60$~200$
◆企画会社:Tune Entertainment主催(←同社サイト、FBの更新が気になる?)

《 公演ポスター 》が当り前だが英語版になっていて、なんだか不思議な感覚だ。

カウントダウンのタイマーまであって・・・
カリフォルニア州は、韓国系アメリカ人の最大居住地だそうで、観客が多数詰め掛けることだろう。

2017年5月18日木曜日

始めの6歩 イディッシュ語

イディッシュ語のようやく6歩目に達した。オンラインキーボードや辞書、翻訳ツールがなければとっくに挫折していたことだろう。まま、かろうじて冷や水飲みながら続けている。ネット時代に感謝。

(本ブログ関連:”イディッシュ語”)

アポロ11号が月に到達した際、アームストロング船長が人類初の月面に第一歩を踏み出すときに発した言葉は、「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍である」だった。一方、私のイディッシュ語学習は、「これは一人の私にとっては荷の大きな一歩だが、人類にとってはちっちゃくて些細なことである」ってことくらい 分かっている、

そんなわけで、今日も何とか出席した。教室を休んで米国でイディッシュ語研修を受けてきた若者が、本教室で参考にしているテキスト「COLLEGE YIDDISH」(URIEL WEINREICH、1996年版)を買ってきてくれたのだ。感謝。何とイディッシュ語専門書店に2冊しか残っていなかったという。あらためて感謝。
それに、先生へ、Yiddish daily Foward のイディッシュ語と英語の両「プリント版」をお土産にしていたが、大層立派な仕上がりに驚き、文化を継承する情熱に敬服する。

今日の先生推奨の入門書「レッスン5」は、歌あり小話ありで多彩。そんな中の一つを関西弁にしてみた。この関西弁というか大阪弁について、神戸出身の方に一応のOKをいただいたが・・・どうだろうか。


ער לעבט פֿון דעס
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?װי גײט אײַער געשעפֿט
.זײער שלעכט. איך פֿאַרליר געלט אַלע טאָג
?פֿאַר װאָס פֿאַרמאַכט איר ניט דאָס געשעפֿט
!װי קען איך?  איך לעב פֿון דעם


これで生きてまんねん
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もうかりまっか
あかん、ずっと金欠ですわ
ほな、なんで(仕事)止めませんのや?
どなんしてや? わし、これ(金欠)で生きてますんや

2017年5月17日水曜日

「韓国の俗信の世界」

韓国の若者の間で話題になるものに「血液型性格分類」がある。以前、日本でもマスコミが騒ぎ、家元争いに似た出版競争があった。これは学説を装った俗信(あるいは都市伝説)といえるだろう。占いなど含めたらきりがない。

何となくそう思わせる「俗信」は、一般に土着的な言い伝えもあるが、といって迷信のような深層の固陋さはない。それに、伝統文化へ昇華できるほどでもない。どちらかといえば、表層的でそれもそうだねと軽く受け流せるようなものだろう。

とはいえ、土地がらによる俗信もあるわけで、自分たちと対比しながら聞くのも楽しい。今晩、地下鉄の四谷三丁目駅の近くにある韓国文化院で開かれた、東海大学国際教育センター曺喜澈(チョ・ヒチョル)教授の「韓国の俗信の世界」の講演を聴講した。曺教授は、以前、NHKテレビのハングル講座の講師を担当された。

(俗信とは何かといった学問的な定義より、フールドワーク的情報に基づいた楽しい話題が中心)

事前に配布の講演レジメは、韓国の俗信(18個)について、それぞれ対応する事物を応えるよう選択肢クイズ形式になっていた。例えば、第1問に(他所の)「赤ちゃんを抱っこして言ってはいけないこと」は、次の「① かわいい、② 肌がきれい、③ 重い」のどれかという設問になっている。①の「かわいい」と、②の(栄養状態がよい)「重い」は、嫉妬から神が赤ちゃんをさらっていくので、言ってはいけない。

様々例示の俗信について、庶民生活も含めて解説いただいた。俗信は、当然ながら風土にもねざしているため、初めて聞くものばかりだったが、勘で選択したところ、当たらずとも遠からず半分ほど合った。庶民感覚で言えば、仮にドイツだろうとアメリカだろうと、それくらい互いに了解できるのかもしれない。俗信は、案外、庶民のプロトタイプかもしれない。

(おもしろビデオ : Weird Things Koreans Do

KBS WORLD「国楽の世界へ」 太平歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(5/10)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、「太平歌」など関連した曲について紹介した。

始めに、「風流房(풍류방)」で歌われた男女二重唱の「太平歌(태평가)」について次のように紹介された。
・昔、音楽好きが集まり鑑賞する「風流房」があった。風流を楽しむ空間の意で、経済的余裕のある家に設けられた。一、二曲で終わらず、様々な音楽を続けた。歌曲가곡)では、男女の歌い手が一曲ずつ繰り返し歌い、最後に(伝統的声楽曲中、唯一男女が一緒に歌う)男女二重唱で、世の泰平を祈る歌詞の「太平歌」を歌った。
・「太平歌」は、静かな前奏中、歌い手が急に高いトーンで大きな声、叫ぶかのように歌い始めて、観客の注目を一気に引く。平和な世を望む気持ちの意だろう。

▼ 歌曲「太平歌」を聴く。あまりにゆるりと流れる響きに別の世界の感がする。

次に、李銀珠(이은주)が「朝鮮戦争」の避難生活中に作った新民謡「太平歌」について次のように紹介された。
・ソウル近郊、京畿民謡にも「太平歌」がある。<腹を立てることなく、楽しんで休もう>という歌詞で始まる。世の中には心痛むことがたくさんあるからだ。歌詞は、京畿民謡で知られる、李銀珠が「朝鮮戦争(韓国戦争)」の避難生活中に作った。避難生活のあまりに大変さに、平和な世を祈願して作ったという。人々に大変親しまれ、京畿民謡を代表する曲の一つになった。広く知られる「扇の舞(부채춤)」(1954年、金白峰による創作)の伴奏にも演奏する。

▼ 京畿民謡の「太平歌」を聴く。リフレーンが楽しい(起源についてはnamu.wiki参照)、今様に。

最後に、パンソリ「水宮歌(수궁가)」の「皐皐天邊(고고천변)」の曲について次のように紹介された。
・パンソリ「水宮歌」は、竜王の病を治すため、カメがウサギの肝を求めて陸地に出てくるという物語りだ。「皐皐天邊」の曲は、カメが陸地に出ることを表現し、<高き空の太陽が、山の峰を照らす>場面を表す歌詞で始まる。早朝の水平線に太陽が昇る。海以外の世界を初めて目にしたカメはにとって別世界だった。美しい歌詞と平和なメロディーの「皐皐天邊」は、短歌(단가)やカヤグムの弾き語りでよく歌われる。

▼ カヤグムの弾き語りの「皐皐天邊」を聴く。五線譜で聞く演歌というか浪曲っぽさに驚く。

2017年5月16日火曜日

6/3,4 幕張海浜公園上空にDC-3飛来

DC-3は身近なようで、本当は知らない。レシプロエンジンの回転音が懐かしいようで、本当は知らない。知っているのは、カセットテープに収められたハワイ上空を飛ぶ実況録音版だけなのだ。だから実物をいつか見たいと思っていた。

(本ブログ関連:”DC-3”、”飛行機”、”飛行場”)

レシプロエンジンの飛行機といえば、子どものころ、上空をのんびりとまるで停止しているかのように飛んでいた、双胴のC-119(C-one nineteen)輸送機が懐かしい。ブォーンという音を発しながら漂っていた。遠くの米軍基地*を拠点にしていたようだ。私が見上げた空に、すでに戦乱(朝鮮戦争)の臭いはなかった。

(* 米軍基地: 芦屋基地と思っていたが、もしかしたら板付基地だったのかもしれない)

ところで、DC-3について、近々本物と出会うことができるようだ。RedBull AIR RACEの案内に次のような情報がある。九州から順に巡ってきているようだ。
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伝説の航空機「DC-3」が幕張の空を舞う
現在、世界1周飛行中の名機を間近に見られる絶好のチャンス

6月3日(土)、4日(日)に開催されるRed Bull Air Race World Championship 2017シーズンの第3戦、「レッドブル・エアレース千葉2017」。そのサイドアクトの一環で、伝説の航空機として世界中のファンを魅了する「DC-3」が、会場となる千葉県立幕張海浜公園の上空に登場する。

双発プロペラ機の「DC-3」はダグラス・エアクラフト社(現ボーイング社)が開発した旅客機・輸送機で1935年に初飛行。その丈夫さ、低燃費、長距離輸送力により、航空産業を支えた往年の名機として名高い。しかし、今や飛行できる機体は世界で約150機に限られる。そのうちの貴重な1機がまもなく日本上空にその姿を現すのだ。
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(エンジンの始動に息遣いを感じる)

(Youtubeに登録のmatthiashaenniに感謝)

2017年5月15日月曜日

ユダヤ・ジョークで?

イディッシュ語講習の配布教材に載っている小話がよく分からない。実は、「ユダヤ・ジョーク集」(ラビ・M・トケイヤー著)という文庫本をAmazonで入手したが、同様の内容があって、それでもどうして? という疑問のままなのだ。ちょっと抜書きしてみる。

(文庫本から)「人ちがい」
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水売りのアイザックが、水がめに水を入れてもどってくる途中、ひとりの男が、
「マイヤー、これ食らえ」
と言いながら、アイザックをしたたか殴った。アイザックは立ち上がり、ゲラゲラ笑った。
「マイヤー、何がおかしいんだ。気でも狂ったのか」
「バカなのは、おまえじゃないか、だいたい、おれはマイヤーではないのだ」
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これで、お終い・・・ムムム、今一つピンとこない。人ちがいして突然殴られた人物が、笑って済ませている。これでどうしてジョークなのか。文化特有の意味(粗忽さ、または鷹揚さ、教養、或いは取りつくろい)なのか、はたまた私の鈍感さなのか。私だったらいきり立つだろうけれど。イディッシュ語教材は、次のように場面設定は違うが・・・展開は同様。

(教材から?װי הײסט איר
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אַ ייִד קומט צו אַ צװײטן ייִד אין הױז און פֿרעגט
?זײַט אַזױ גוט. זאָגט מיר ׃ איר הײסט שׂלמה גאָלדבערג
יאָ. זאָגט דער אַנדערער ייִד
דער ערשטער ייִד גיט אים אַ פּאַטש. אָבער דער צװײטער לאַכט
ה׳ גאָלדבערג. פֿאַר װאָס לאַכט איר?  פֿרעגט דער ערשטער
!װײַל איך הײס גאָרניט שלמח גאָלדבערג! איך הײס דוד שװאַרץ
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2017年5月14日日曜日

イ・ソンヒの「愛してます 母さん」

今日は「母の日」。母は唯一の確信なんですね。全ての始まりであり、帰着点なんですから。これほどに心一つになれる日はありません。母さんは私の自信の源泉です。

以前、母のイメージに関連したものを列記したことがある。2015年の「母の日」のこと。それ以降も関連した(例えば高齢問題にからめた映画「怪しい彼女」)ものがあるけれど、とりあえず、当時記したのは次の通り。
・イ・ソンヒ : アニメ「走れハニー」・「母をたずねて三千里」、イ・ソンヒのエピソードイ・ソンヒの生誕
・アソール : 唄「Mama」 ⇒ Youtube(<もっと見る>に英語訳歌詞あり)
エセーニン : 詩「母への手紙」 ⇒ Youtube(<もっと見る>に英語訳歌詞あり)
申京淑 : 小説「母をお願い」

では、イ・ソンヒのキャロルアルバム(1991年)所収の「愛してます 母さん(사랑해요 엄마)」(作詞キム・ミンジョン、作曲ソン・シヒョン、編曲ピョン・ソンリョン/ユ・チヨン)を聴いて、懐かしい想い出にひたってみたい。


愛してます 母さん、母さんのその微笑を
愛してます 母さん、母さんのそのすべてを
*
隠れたその笑顔の裏に 麗しい皺(しわ)の刻まれたその顔
私にくださった その愛で世界を愛します

愛してます 愛してます
母さんの顔だけ思い浮かべれば 私の心は平和です

(* 以下繰り返し)


(Youtubeに登録のKoreanMusicSubsに感謝)

2017年5月13日土曜日

BANANA LATTE 2

薬の服用で困るのは、3食後という指示だ。せっかく食事したのに、その直後に薬では興ざめもいいところ。何とかうまい方法がないものかと相談すれば、食前・食中でもよいそうだ。(私の薬の場合だけかもしれないが)

朝食の場合、面倒さがかさむ。このところ食べるのが億劫になってきているのに。(さいわい、息をするのまでは面倒になっていはないけれど)
この、やっかいな朝食にいい考えがある。バナナなら手間いらずで、簡単に朝食代わりになる。暖かい時期に、バナナとミルクで作ったバナナジュースは重宝する。(真冬はちょっと躊躇したが) そして、薬はバナナジュースと一緒に飲み下せばよい。

バナナが貴重品だった時代を経験した、私ら世代のバナナ信仰はいまだ止められない(と思う)。だから、バナナ廻りのものなら何でもよくて、店頭にバナナジュースや菓子があればすかさず購入する。今日もそうだった。病院帰りに寄ったコンビニの棚に「新製品」の札がついた 500ml紙パック入りの「BANANA LATTE」(森永乳業)を見つけた。

(本ブログ関連:"バナナ")

バナナ巡礼として、バナナ味を見つけてはブログに記している。この「BANANA LATTE」について、去年3月30日付けで記入していた・・・あれれ。何で「新製品」? パッケージが違うだけ? 味は前回同様、マイルドにして実に爽やか。バナナ味報告が重複してしまったが、バナナは全て許してくれると思う。(雨に濡れて帰ってきたのだから)

2017年5月12日金曜日

イ・ソンヒの「分かりたいです」

最近、イ・ソンヒのファン(あるいはファンクラブ)秘蔵の映像がYoutubeにあふれている。よくぞ収集してこられたと感嘆する。それ以前、彼女の姿をしっかり撮っているなと感じたのは、「20周年コンサート」(2004年)のものだった気がする。その後、MBCの音楽番組「音楽旅行 ラララ」(2009年)が登録され、バックライトに彼女の髪の毛一本まで映っている鮮明な画質に驚いた。表情もしっかりアップされ、音楽も美しかった。

先日(5/6)、イ・ソンヒの初期曲にして代表曲である「分かりたいです(알고 싶어요)」(作詞ヤン・インジャ、作曲キム・ヒガプ、1986年)の作者についての記事に触れた。MBC「音楽旅行 ラララ」の番組中に歌われたこの曲をじっくり、しっとり聴いてみたい。

庭に降りそそぐ月明かりをイメージして、青い光の中で歌う。ひとびとに、黄真伊の《漢詩的世界まで想起させてしまった》という幻想的な歌でもある。

(本ブログ関連:”音楽旅行 ラララ”、”分かりたいです”)


月明りの夜、あなたは、誰を想いますか
夢路で、あなたは、何を見ますか

深い夜、一人醒めて、涙流しませんか
時に日記に、私のことも、記しませんか

私と逢って幸せでしたか、私の愛を信じますか
あなたを想えば、全て気掛かりです
               ____

一日中、私の想い、どれほど重ねますか
私本当に、あなたの、心に入りますか

雀のように、騒いでも、今でもかわいいですか
忙しいとき、電話しても、私の声嬉しいですか

私はとても綺麗ですか、心から私を愛してますか
本当に分かりたいです、話ししてください


(Youtubeに登録のMBCkpopに感謝)

2017年5月11日木曜日

始めの5歩 イディッシュ語

5月初のGWのため、教室も休みとなったが、怠け者はそれを有効に使わなかった。力が歯抜けした状態で、力不足そのまま通った次第。テレビだったかYoutubeだったか、「語学力の基本は記憶力だ」と身も蓋もないことを専門家が語られていたが、寅さんじゃないが「それをいっちゃあ、おしまいだよ」・・・でも、本当なんだな。(それに、電車に揺られて溺れる春眠の心地よさ)

(本ブログ関連:”イディッシュ語”)

今日は、前回配布された教材とオンライン教材をもとに盛りだくさんにすすめられた。
・先生推奨の入門書のレッスン4(די פֿרידמאַנס אין דער הײם)を輪読: 裕福で教養高いフリードマン家の人々の食事前の会話・・・といった内容。
・先生紹介のネット公開教材ソフトの「レベル1-3」(ס׳איז דאָ אײן עפּל)を元に、数詞、乾杯(לחיים、レハイム)など。あわせて、
- 安息日(שבת, シャベス)と食事のルール(כַּשְׁרוּת、カシュルート)について解説をいただいた。
- 「Bulbes」(ジャガイモ)の歌を歌った。先生のブログにこの歌と食事について解説が載っている。(そういえば、戦前の歌に「コロッケの唄」があって、「今日もコロッケ、明日もコロッケ」という歌詞がある)

(先生推奨の映像: 楽しい「Bulbes」(ジャガイモ)の歌)

(Youtubeに登録のYosiKidsに感謝)

2017年5月10日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 仏教的要素

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(5/3)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、国楽にある仏教的要素について関連した曲を紹介した。(未聴のため韓国語版解説を転記した)

始めに、パンソリに「僧侶打令(중타령)」があり、話の流れを反転させる役割について次のように紹介された。
・パンソリには「僧侶打令」があり、一つは、「沈清歌」の中で夢恩寺の化主僧が寺に帰る途中、沈清の父親(盲人)が水に落ちたのを引き上げて命を救ってくれる部分であり、もう一つは、「興甫歌」の中で貧困のために悲しみに陥った興甫夫婦に導師が現れ、家の敷地を探してくれる部分だ。
・ここで、僧侶は、話の流れを反転させる重要な役割をするが、パンソリでは、このような独特の人物が登場すると、通常は(ずれるように進める)「オンモリ(엇모리)長短」を使って注意を喚起させる。

▼ 「興甫歌」から「導師が家の敷地を探してくれる場面」。

次に、パンソリの中に、仏教の教えが自然な生活の一部だったことを示す部分について次のように紹介された。
・昔、仏教は特定の宗教というより自然な生活の一部だった。朝鮮時代、政治的には仏教を抑圧して儒教を崇めたが、儒教は民百姓が生活の中で経験する生・老・病・死の苦しみを慰撫してやるのは難しく、人々はまだ仏教とシャーマニズム(巫俗)に依拠した。
・パンソリ「沈清歌」は、谷城の観音寺の緣起說話と関連のある歌で、沈清の父親(盲人)が目を明いたとき、すべての視覚障害者(盲人)が一緒に目を明ける部分は、仏さまが悟りを得ると衆生が一緒に悟るという、仏教の教えとも符合する物語である。

▼ 「万座盲人目を明ける(만좌맹인 눈을 뜬다)」。

最後に、「念仏ドドゥリ(염불도드리)」について次のように紹介された。
・「念仏ドドゥリ」は、本来9曲の組曲で構成された「霊山会相」の7番目の曲で、「念仏」という名から見て、元来仏教音楽だったのが「霊山会相」に挿入されたものとされるが、現在、仏教音楽の痕跡は残っていない。本日の念仏ドドゥリは、現行の念仏ドドゥリに仏教音楽の意味を生かし「南無阿弥陀仏」という念仏を入れて新たに構成した音楽である。

▼ 「念仏ドドゥリ」の歌。

2017年5月9日火曜日

(雑談)きれいに筆記すること

テレビにマニアックな人と対談する番組があって、今回、文字フォントのマニアが登場した(「マツコの知らない世界」33:45~)*。街の看板や掲示にあふれるさまざまな書体が目に飛び込んでくるらしく、すっかりはまっているようだ。彼の薀蓄を聞きながら、そういえば、きれいに筆記することの難しさにも思いいたった次第。

(* フォントについて対談は 33:45~。5/16の20時56分まで視聴可能とのこと)

歳をとると筆力というか指使いが下手になって、もともと悪筆なのに追い討ちをかける。ノートにメモをとるとき、できるだけ小さめの文字に書いて乱れを最小にしようとしている。ところが、早く語られる内容を追いかけ急いで書き写すとき、本来の悪筆が暴露されてしまう。まさに乱筆(乱調)。

復習かたがた、ごちゃごちゃ書き連ねたノートを見直すとき、(清書に手がまわらないため)ポイント部分を筆ペンで太字にしている。乱れをできるだけ修正したいからだ。だから、整った筆致で書く人がうらやましい。どんなに早く語られる内容も、丁寧に書き留めているのを見ると感心するばかり。

昔、感熱紙型のワープロ専用機が出たとき、例にもれず購入した。最初に驚いたのは、まるで書籍と同じような文字を使えることだった。ワープロというツールのおかげで、意のままに明朝体やゴシック体で表現できるのだから。なんだか、その気になってしまった。

明朝体やゴシック体の書体でできあがったものを見ての誤解は、書くときもそうだが、読むときもそうだった。でも直ぐに、第3者の編集(内容吟味と校正)の手が加わらないものは、素人の手書きに過ぎないのに気付く。当り前のことだが。

若い人は、こんな乖離をちらりと意識したことがあるだろうか。彼らはすでに、昔のように書籍に対する信仰、権威、ありがたさ**を感じない世代かもしれないけれど。

(** 今の書籍には、ずっと昔の植字による活版印刷の重厚さはないけれど)

2017年5月8日月曜日

タイムトンネル

昔、タイムトラベルをテーマにした、二人組みの主人公が渦巻状の筒を出入りして時間を横断するテレビ番組「タイムトンネル」があった。

(今日の時間が残り少ないので、ブログ記述の途中に一旦登録、日付のアリバイ作りする)

白黒だったような気がしたが、Youtubeにはカラー画面が多数登録されている・・・かように記憶は曖昧だ。

時間移動できるなんて、何と愉快なことだろうと思った。時間が有り余る頃のこと、とはいえ時空を制御する物理学上の関心なんてあるはずもなく、ただ空想だけ無限大だった。

時間を越えて、過去に痕跡を残しちゃダメなんて無理な話しだろうと思った。時空が枝分かれするという考えもあるそうだが・・・でも未来からの影響されてのことではないだろうに。

最近、病院に通ったことから、あれこれ診てもらうことにしたところ、多々歳のせいにされた。で、昔に戻って若さを取り戻したいかといえばそうでない。面倒くさいのだ。

時空の制御は永遠の課題かもしれないけれど、私にとっては、時間の流れに竿をさす元気はなさそう。


(Youtubeに登録のinfobellsに感謝)

2017年5月7日日曜日

シルヴィ・ヴァルタン 「アイドルを探せ」

イ・ソンヒが誕生して間もないころ、シルヴィ・ヴァルタンが来日した・・・1965年5月のこと。「フレンチ・ポップス」の代表であった彼女の歌は、押しの強いアメリカン・ポップスにすっかり漬かっていた当時の若者たちに、一種の清涼剤になった。どこかお人形さんめいた新鮮さがあった。

(本ブログ関連:"シルヴィ・ヴァルタン")

若者たちといっても、男性と女性では受け止め方が違っただろうけれど、当時、女性の側の関心の持ち方を聞く術もなかったし・・・まぁ、そんなところでしかなかったが。シルヴィ・ヴァルタンのデビュー当時の容貌が好みだった。彼女の母親がハンガリー人(父親はフランス籍のブルガリア人)ということから、どこか遠い彼方で通じるような親和を感じた。

もちろん歌は思いっきり、おしゃれなフレンチ・ポップス、ハスキーが魅力的で・・・。


(Youtubeに登録のSYLVISSIMA YOUTUBEに感謝、感謝!)

2017年5月6日土曜日

イ・ソンヒと作曲家キム・ヒガプ - 作詞家ヤン・インジャ夫婦

毎日経済の記事「作曲家キム・ヒガプ - 作詞家ヤン・インジャ夫婦の歌 … KBS『不朽の名曲』」(5/6)は、イ・ソンヒと彼女の代表曲「分かりたいです(알고 싶어요)」(1986年)の作詞・作曲家夫婦とのちょっとしたエピソードを紹介している。
(イ・ソンヒに関わる部分のみ抜粋)

(本ブログ関連:”分かりたいです”)

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・KBS 2TV の「不朽の名曲」は、数多くのヒット曲を生んだ作曲家キム・ヒガプ - 作詞家ヤン・インジャ夫婦編を、6日と13日午後6時、2週に渡って放送する。
チョー・ヨンピルの「キリマンジャロのヒョウ」、「その冬の喫茶店」、イ・ソンヒの「分かりたいです」、イム・ジュリの「リップスティックを濃く塗って」、キム・ククァンの「タタタ」などは、キム・ヒガプ - ヤン・インジャ夫婦が共に誕生させたヒット曲である。

・これらは共に手をとりあって作った400余曲をはじめとして、今まで4千500余曲を発表した。

・キム・ヒガプ - ヤン・インジャは、「不朽の名曲」で歌手とヒット曲にまつわる隠されたエピソードを公開する。

・これに先立って行なわれた録画の際に、ヤン・インジャは、「イ・ソンヒが私たち夫婦の結婚式で祝歌を歌ってくれた」といって、「うっかりして、そのとき感謝の挨拶を伝えられなかった。忘れていたのを、放送のおかげで、今30年ぶりに思い出した」と笑った。

・ヤン・インジャは、続けて、イ・ソンヒに「必ず一度ご馳走する」と映像レターを出した。
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2017年5月5日金曜日

「走れ、走って逃げろ」

イ・ソンヒが主題歌を歌ったTVアニメ「走れハニー(달려라 하니)」(1985年~1987年放送)は、幼い頃に母を病気で亡くした少女ハニーが、しかもその後、父親が女性タレントに心移りするといった辛い境遇にありながら、中学の陸上選手として成長するスポーツドラマだ。

(本ブログ関連:”走れハニー”)

体育教師との強い絆に見守れたハニーは、目標と心の支えを得たればこそ、自分を見つめ陸上選手として活躍することができたのだろう。ソウルオリンピックの前年まで放送されたという。

似た題名だが、児童書に「走れ、走って逃げろ」(U. オルレヴ、母袋夏生訳、岩波少年文庫)がある。体験に基づくもので、時代は遡り、第二次大戦中のポーランド国内の農村や森に逃げて生き延びたユダヤ少年の幸運な出会いを語っている。このGWに読んでみたらと、教室で先生から紹介されたものだ。

死者は語ることができないといった話を先生はされたと思う。主人公(スルリック、逃亡中「ユレク」と名乗る)は、8歳から12歳ころまでの間に生死を分けた、そして偶然といっていい出会いに救われる。幸いにも過去を語る側に立てたのだ。彼は、街角や森の奥に隠れ住むユダヤの少年たち、牛飼いのため雇ってくれたポーランドの農民家族、逃亡を見て見ぬ振りしたドイツ兵。一個人で相対したとき、素の人間があらわれ、善人もいれば、恐怖の人間もいた。

私が子どもの時代でも、まだ戦後の余韻が残っていて、テレビは今では考えられないほど太平洋戦争の記録映画を放映したし、漫画雑誌に少年の戦闘機パイロット物語が連載された。だから、戦争経験者の体験記も文芸春秋の特集号として掲載された。子どもながらに読んだ印象は、銃弾の銃創の激痛であり、ひもじさであり、果てのない逃走の記録だった。生き残った人々の言葉は、直接的で、肉体的なものだった。彼らの言葉には、その後語られるような分析はなかった。

「走れ、走って逃げろ」もそうだ。過去も明日もない、今日をどうやって生き抜くか、それが精一杯なのだから。もし、少年の回想に、死を身近にする場面があるとすれば、逃走の途中、偶然再会した瀕死の父の言葉かもしれない。生きるためにすべきこと、そして忘れてはならないことを、父親は早く逃げるようさとしながら語った。

結果、少年は生き抜いた。体験者(主人公)の話をもとに著された「走れ、走って逃げろ」は、似た経験を持つとはいえ、作家(著者)の手になるものだ。もし本人が体験記として書いたらどうなったか気になるところだ。

(本ブログ関連:”ひまわり ”、”シェルブールの雨傘”、”君の名は”)

(5/6追記)
今日(5/5)は、祝日「こどもの日」であり、春分と夏至の中間で夏の始まりを示す「立夏」だ。実際は、明日・明後日の土日の休日が残っており、GWがまだ続く。

2017年5月4日木曜日

みどりの日 2017

今日(5/4)は祝日「みどりの日」。「憲法記念日」(5/3)、「こどもの日」(5/5)と共にゴールデンウィークの連休を構成する。「みどりの日」は、本来あった4月29日が「昭和の日」となり、かわって5月初旬の休みに組み込まれたようだ。

(本ブログ関連:”みどりの日”)

近頃は、土日・祝日などが充実し、働き過ぎといわれた<猛烈サラリーマン時代>と比べて休日が多い。とはいえ、みなが同じ歩調をとる時代と違い、他方で長時間労働の問題もあったりするわけで、誰もがみな休んでいるわけではない。

昔、緑化運動の一環として、<緑の羽根>をつけたりしたが、「みどりの日」と<緑の羽根>を直接結びつける言葉がネット上で見つからない。緑の羽根は、「みどりの月間」(4/15~5/14)と重なるが、「みどりの日」と直接つながっていないようだ。つまり「みどりの日」は、緑化運動に限定したものでなく、<自然に親しむ日>ということになるようだ。

疲れ目を癒すため、公園を眼鏡なしで散歩したりすると、若葉の濃淡が混ざり合って、辺り一面が複雑な緑陰となり心地よい春を味わえる。このところ、連日、そんな遊びをしている。

2017年5月3日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 ノレカラク

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(4/26)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、京畿民謡「ノレカラク노랫가락)」他、京畿地方に関連した曲を紹介した。

始めに、元々巫女が歌った京畿民謡「ノレカラク」について次のように紹介された。
・国土に比べて山や渓谷が多く、他村への移動は容易でなかった。村ごとに独特な話し方と風習があり、民謡も地域差があった。半島南部の全羅道を中心に伝わる「南道民謡」は、太めの声で深い響きがあり、一方、北部に伝わる「西道民謡」は、鼻声が特徴。ソウル付近の京畿地方に「京畿民謡」があり、中央と人と物が往来しただけに、歌も明るい。
・京畿民謡「ノレカラク」は、歌の意で、「ノレ」は歌、「カラク」はメロディーを指す。ノレもカラクも同じかと思われるが、昔、階層によって呼び方が違った。支配階層が歌うのは「歌(ノレ、노래)」、民が歌うのは、「雑歌」から、「音(ソリ、소리)」、「カラク」などと呼ばれた。「ノレカラク」は、支配階層の楽しんだ歌詞を民が歌う意がある。元々、巫女が祭祀を捧げるときに歌ったものが民間に広まったものだ。

▼ <伴奏を聴くだけでも親しみが感じられる>という京畿民謡「歌調べ」を聴く。どこか大衆歌謡風で聞きやすい。

次に、京畿民謡の「京畿雑歌」の「フィモリ雑歌(휘모리잡가)」について次ように紹介された。
・京畿民謡は、誰もが簡単に歌えるものや、専門の歌い手でないと歌えないものがあった。そんなジャンルを「京畿雑歌」といい、長い歌をおとなしく座って歌ったり、立ちっぱなしで太鼓を叩きながら踊り歌ったりした。ユーモアのある歌詞を速いテンポで歌う、「フィモリ雑歌」という歌い方に、「蛙打令(맹꽁이타령)」がある。

▼ フィモリ雑歌で<強情な人を蛙に例えた>「蛙打令」で<都会人を蛙に例えた>ものを聴く。次々止まらない・・・

最後に、シャーマニズムの儀式「クッ(굿)」の「テカムノリ(대감놀이)」について次のように紹介された。
・シャーマニズムの儀式「クッ」は、巫女が供物を揃えて歌い踊る。かつて迷信といわれたが、最近、伝統的文化と捉えるようになった。神を最良にもてなす意で、巫女は着飾り優れた歌と踊りを披露する。儀式は、芸術的レベルと見られ、民間音楽にも影響を与えた。財運など縁起の良いと言われる「テカムノリ」がある。「テカム」は巫女が神を呼ぶときの呼び方で、「テカムノリ」は神を祀(まつ)る儀式を指す。

▼ <巫女が敷地神を祀り踊る(楽しく遊ぶ)厄払い>「テカムノリ」を聴く。掛け合いはないが次の映像も楽しい。

(ステージより民間での儀式を見る方が雰囲気が伝わる)

(Youtubeに登録の천승요に感謝)


(追記)
公園の帰り道、滅多に通ったことのない裏道の並木道で、急に目の前に何かが落ちてきた。怪しい気分になり、上着を脱いで見たところなんと、(ネットによれば)「返り襟」という、首からつながった襟の胸のあたりに、鳥のフンが白く! ・・・ 郷土館に駆け込んで水洗いしたが。シャーマニズムでは、鳥は魂を運ぶというが。記憶にある限り、人生で2度目のこと。

2017年5月2日火曜日

イ・ソンヒのLAコンサート

今月20日に予定されているイ・ソンヒの米LA単独公演について、コリアデイリー(LA中央日報)の記事「国民の歌姫イ・ソンヒ、R&Bの妖精パク・ジョンヒョンのLA単独コンサート 」(4/24、キム・ユンス記者)は、次のように報じている。(同記事は、別スケジュールだが、パク・ジョンヒョン(リナ・パーク)のLA単独コンサートについても触れているが、イ・ソンヒ部分について記す)

(本ブログ関連:”LAコンサート”、”ザ・グレートコンサート(The Great Concert)”)

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・今まさにカリフォルニアの春、5月に似合う二人の女性歌手の特別なコンサートが開かれる。まず、5月20日、国民の歌姫のイ・ソンヒの「ザ・グレート」*コンサートが、LA近郊に位置するパームスプリングスの「ファンタジー スプリングス カジノ リゾート」で開催される。

(*「ザ・グレート」: 昨年9月から今年4月初に開催された彼女の(韓国)国内ツアーのタイトル)

・デビューから30年も経ってしまった歳月も、心に響く繊細ながら切ない彼女の声は、ほのかな香りとなってLA在住韓国系の人々をしっとりと包むつもりである。少女でデビューし、国民の歌姫のタイトルの主人公となったイ・ソンヒの歌の実力は、昔も今も清らかで澄んだパワフルなボーカルが圧倒的である。聴衆をつかんだ爆発的な歌唱力は、あえて誰も侵犯できない、彼女だけの固有のトレードマークだ。

・甘美なバラードから軽快で活き活きした音楽まで、その上クラシカルな彼女の音楽性は、大韓民国のどんな歌謡ジャンルも思いのままできる最高の至尊(=王)女性歌手として遜色がない。その上、ドラマと映画の主題曲にももれなく、彼女の伝説は刻まれている。2015年に発表したイ・ソンヒの「因縁(인연)」は、1千万人の観客を動員した「王の男(왕의 남자)」に挿入され、国民的愛を受けた。

・彼女は、直接作詞、作曲し、歌を歌って最高の歌手境地である「シンソンラ(シンガーソングライター)」の面目を見せてくれたりした。のみならず、先日、泰然として水木ドラマ「青い海の伝説(푸른 바다의 전설)」のOST「風花(바람꽃)」を歌い、各種音源チャートの上位圏をさらった。最近では、歌謡競演(コンテスト)芸能番組に出演、一般人と共に歌い、最高のタイトルを獲得する光栄を抱いたりもした。昨年。全国ツアーを終えたイ・ソンヒは、デビュー32周年を迎え、ワールドツアーの途上に上がる、その最初の舞台が、まさにここ天使の街ロサンゼルスだ。「ザ・グレートコンサート イ・ソンヒ」は、すでに国内で4千席の「世宗文化会館」の完売を記録した名品コンサートとして有名である。国民の歌姫の情熱と細心ながらもダイナミックな歌唱力とレパートリー、そして記憶に残る舞台演出は、LAの歌謡ファンたちの胸に末永く残るだろう。

・イ・ソンヒの「2017 ザ・グレート イソンヒ LA公演」は、来る5月20日午後7時LA近郊パームスプリングスのファンタジースプリングスカジノ リゾートで開かれる。コリアデイリードットコムの ”핫딜(Hot deal)”は、60ドルA席から200ドルVIP席チケットを販売する。
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(5/3追記)
今日(5/2)、「調布飛行場」をぐるり巡る。NCA(新中央航空)保有のドルニエ機(Do228/Do228NG:全6機)の内、なんと5基が整備中のためか駐機しており、やがてもう一機が北の空から着陸するのが見えた。飛行場フェンスに我らおじさんたちがぶらさがるように張り付いていた。

2017年5月1日月曜日

ブリューゲルの「バベルの塔」

今年の主要絵画展の一つに、P.ブリューゲルのものがある。彼の作品「バベルの塔」を展示会タイトルにしている。

ブリューゲルとの出会いは、ボッシュにつづく怪奇な絵柄に、いかにも中学生らしい好奇心から関心を持ったのが最初だ。印象派絵画がポピュラーだった時代、表に登場して大きく捉えられたりはしなかったが、彼の題材に農民の生活を描いたものがあって、「農民画家」と呼ばれたりした。いってみれば、ミレーの「落穂ひろい」に、知的な戦前・戦後世代が勝手に共感した想いに似たものだった。それに比べれば、私の興味は漫画的だったかもしれない。

(本ブログ関連:”ブリューゲル”、”北方ルネッサンス”)

ところで、ブリューゲルと彼の作品「バベルの塔」との間に、私にとっていまだに距離感がある。「バベルの塔」は、因習と諧謔の世界から、アルプス越えを機会に世界を広げた、宗教的な題材探しの時代のものだろう。ひとまわりして帰着した、その後の作品が農民の風景だったが、もちろん、それを(村を賞賛し、村に還った)人文主義的な共感として描いたとは思えない。人生に対する十分な皮肉と、十分な達観が混じっていた。

「バベルの塔」の絵画理解に建築学的に整合性があるといわれると、ブリューゲルは一体どこへ行ってしまったのかと戸惑うばかり。(北方ルネッサンス特有の空間恐怖的な)細部への執拗なこだわりに、正直、魅かれたことはない。どうして、あんな絵を描いてしまったのかという分析があるのなら、一度は聞いてもいいかなと思う次第*。

(*)Youtube: 山田五郎 オトナの教養講座
① 「【バベルの塔とは?】本当にあったの?神様が怒って壊した?なぜ?高くしすぎたから?ノアの方舟とも関係?そもそもどこに建っていた塔なの?」(2023.9.15)
https://www.youtube.com/watch?v=7APlp7wu_lw
- 当時のアントワルペンの画家たちが、こぞって同じテーマで描いた時代背景まで解説
② 「【超細密な大傑作!】虫メガネ必須級!?「バベルの塔」を細かく見ると掘削隊や鳶職人など建築関係者、なんと洗濯物まで描かれている??さらに遠くの街にも人が!?【バベルの塔・大バベル小バベル】」(2023.9.20)
- https://www.youtube.com/watch?v=p63ARp1Yae0&t=23s
③ 「付録付きテロップ改訂版【完全版!バベルの塔論考】山田五郎オトナの教養講座公認切り抜き【ピーテル・ブリューゲル1世/バベルの塔総集編】」(2024.2.26)
- https://www.youtube.com/watch?v=C3BaIwJWuHs


いまどきの、ブリューゲルへの関心が、主要絵画を見漁った結果、二番手、三番手の希少さを逆に誇るような風潮に遇したものでないことを祈るばかりだ。