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2017年7月31日月曜日

こんにちは

イディッシュ語で「こんにちは」は、「Shalom Aleichem(その返しは、Aleichem Shalom)」で、「あなたに平和を」を意味するそうだ。これを筆名にした作家が「ショーレム・アレイヘム」だ。

韓国語の「こんにちは」は、「アンニョン・ハセヨ」で、「安寧(アンニョン)していらっしゃいますか(ハセヨ)」を意味し、<平和>に通じる<安寧>が使われている。

日本語の場合、「こんにちは」は、「こんにち(今日)は~」と後を略し、様子の具合を相手に任せる。新しい明治言葉のような響きがするが、「江戸期気の置けない仲間同士のあいさつだった」(「あいさつ言葉の変化」倉持益子、「明海日本語」第 18 号 増刊 (2013.11))そうだ。昔の日本は、平和も安寧も気にするまでもない、それが当り前だったのだろう。


(Youtubeに登録のThe Soul of Jewish Musicに感謝)

2017年7月30日日曜日

イ・ソンヒ 「オークバレー サマーフェスティバル」8/5

ニュース1の記事「オークバレー サマーフェスティバル... 8月19日まで」(7/25、パク・テスン記者)によれば、イ・ソンヒがオークバレーリゾートで開催される「オークバレー サマーフェスティバル」(7/28~8/19)の、8/5の舞台に登場すると報じている。

(参考)オークバレーリゾート(namu.wiki「スキー場」)
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・江原道原州市地正面月松里にあるスキー場で、江原道と京畿道の境界近くに位置する。
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(追記:7/31付け)
中央日報の記事「歌手イ・ソンヒ、8月5日 原州のオークバレーで公演」(7/31)に詳細が触れられている。
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・イ・ソンヒさんは、江原道を訪れたのは異例で、江原道最初のイ・ソンヒ無料公演という点で、さらに格別だ。
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2017年7月29日土曜日

イ・ソンヒ 「私はいつもあなたを」

イ・ソンヒが、4集所収の「私はいつもあなたを(나 항상 그대를)」(1988年、キム・ミンジョン作詞、ソン・シヒョン作曲)を、MBCの深夜音楽番組「音楽旅行ラララ(음악여행 라라라)」で歌った様子をYoutubeで視聴してみよう。

(本ブログ関連:”私はいつもあなたを”)

放送は、彼女のコンサート「招待」(2009年4月1日~5日)の前月末(3月25日)に流されたものだが、それ以前に録画されている。コンサート直前のこと、彼女の高精細(HD)のアップ映像が貴重だったが、放送の歌の仕上がりが微妙だった。今も少々気にかかっている。でも、彼女の歌には不思議な安堵感がある。ぞれはいつも然変わりない。


いつもあなたを、慕っているのに
思うようにはいけない
今日も、セピア色した写真の中に
あなたの姿しのぶわ
*
いつもあなたに、会いたいのに
あなたは何処へ立ったの
優しいその姿、涙で染めるわ
あなた、私に戻ってよ

戻ってきて、私のところへ
すべて、あなただけなのよ(Oh~Oh~Oh)

燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ

(*以下繰り返し)

(戻ってきて・・・)
あなた、戻ってきてよ
すべて、あなただけなのよ

燃える私の愛、避けられないのよ
あなた、私に(Oh~~)戻ってよ


(Youtubeに登録のMBCkpopに感謝)

2017年7月28日金曜日

鉱物好きの心理

対象が「鉱物」というだけかもしれないが、鉱物好きの心理にどんな側面があるか、思いつくまま列挙する。鉱物好きのそれぞれにとって、以下の好奇心が多かれ少なかれ織り交ざっているだろう。とはいえ、鉱物マニアの集いでは、「理科(科学)的好奇心」だけを語らざる得ない。他の好奇心については、口外せずひそかに心にしまっておくようだ。

理科(科学)的好奇心:
・いわゆる鉱物マニアが賛同する、まさに好奇心の本流であり、基層を成す心理だろう。(アマチュアの世界)
・博物学の出発点であり、科学との接点を大事にする科学信仰がある。(科学者を頂点にしたピラミッドの世界)
・他の自然物(化石、昆虫など)採集マニアと太い共通点がある。(古典分類学の世界)

貴族所有的好奇心:
・ヴィクトリア/欧州貴族風な博物学を母胎とした、世界自然を把握(征服支配)する手段としての収集と陳列。
・財力と知恵が合一したサロン的世界に酔いしれることができる、うらやましい世界。
・知的孤高を貴種とする高踏的な社会。意識せずとも、世間から自然に遠ざかる。

美意識的好奇心:
・鉱物好きの原点に、結晶の美しさがあって、「水晶に始まって、水晶に終わる」とか。
・石から雲や水が湧き出るのを見るような超自然で幻想的(文学的)世界へ誘う好奇心。
・石の姿形(形態)に、自然との抽象的相似を感じとる凝縮された、水石的古来の美意識。

産業的好奇心
・鉱物と宝飾が混在した世界で、とくに女性の宝石好きとつながる。男は黙って見守る。
・鉱物を社会に産業として応用する。実は、好奇心を経済的に支えてきた土台骨。鉱物マニアは黙って見守る。

神秘的好奇心:
・石に霊的力(Power)を感じとる、鉱物好きにとって近寄りがたい、外来種グループ。


(本ブログ関連:”鉱物マニア”)


(付記)
鉱物採集マニアについて
・国内産の鉱物標本を最重視する。(完全な結晶、大きな標本は自慢になる)
・自分の手で採集した「標本」にこそ価値を置く。(仲間との標本交換もあるが)
・標本に「鉱物名・鉱山名」など記載した「ラベル」が必須。(日付は特に重視しない)
・具体的な「採集地点(位置)」については、仲間内でも秘匿するケースがある(多い)。
・鉱物鑑定(鉱物名を判別)能力により、身分はヒエラルキー化される。
・採集の際、身の丈に合った量を心掛ける・・・むやみに産地を掘り返し大量獲得しない。
・結局、健康でないと採集活動は続けられない・・・しみじみと。

2017年7月27日木曜日

始めの16歩 イディッシュ語

16日目。残すところあと一日となったが、これまで進歩したのだろうか、成長したのだろうか。いいえ、いいえ、全然! と自信をもっていえる。それに比べて、(他言語)留学の経験あるクラス仲間の進歩は素晴らしい。唯々感心するばかり。

(本ブログ関連:”始めの ~歩 イディッシュ語”、”イディッシュ語”)

そういえばこんな話しを思い出す。中学時代、バスケットボール部に入部すれば背が伸びて女の子にもてると錯覚する男子学生が多かった。でも、それは逆で、バスケット競技がうまくて背が高いから女の子にもてたのだ・・・ニキビ面の少年たちにそれが理解できるには少々時間がかかった。

とはいえ、何とかすれば何とかなるの信念で、あきらめず、ラストに向かって頑張ろう。

・先生がネットで見つけた、古いイディッシュ語の初級教科書「דער אָנהײבער」(The Beginner)から、① 教室のお絵かき風景、② 母と娘のドレスの買物、③ 少年と犬の親密な関係

・先生推奨の入門書(復習編):「レッスン2」(דער לערער און די תּלמידים אין קלאַס)の文法事項の確認:① 形容詞の語尾、② 対格の形容詞、③ 否定形などの作り方。および入門書テキス掲載の「Question」と「Exercise」の解答練習。

・(今回は教室移動したため、環境が整わずネット教材YiddishPOPの学習はできなかった)

(パッといきましょう、明るく元気に! めでたいじゃありませんか!)

(Youtubeに登録のThe Soul of Jewish Musicに感謝)

2017年7月26日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」興甫歌・・・悪者役

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(7/19)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、パンソリ「興甫歌(흥보가)」などの悪者役に関連する曲を紹介した。

始めに、物語のキーになる悪役、パンソリ「興甫歌」の意地悪な兄「ノルボ」について次のように紹介された。
・映画やドラマは、俳優の演技力とシナリオの良さが重要だが、時に悪者役や面白いキャラクターも必要で、観客はそこに集中する。伝統芸能「パンソリ」にも、そんな存在がいる。善人な弟「興甫」が怪我をしたツバメの脚を治し、ツバメが運んできた「ふくべ(瓢箪)」のおかげで金持ちになる。その話を聞いた意地悪な兄「ノルボ」が、ツバメの脚を怪我させて、治そうとする。「興甫歌」は、ノルボの呆れ果てた話から始まる。金持ちになった興甫を一番先に訪ね、何かもらおうとするノルボの性格がよく分かる。

▼ パンソリ「興甫歌」から、「ノルボの意地悪打令(놀보 심술타령」を聴く。抑揚を豊につけて聞かせる。

次に、パンソリ「沈清歌(심청가)」の「意地悪ばばあ(뺑덕어멈)」について次のように紹介された。
・ノルボの意地悪さは、常人に真似ができぬレベルで、自分の利益に関わらず、他人をいじめるのを楽しむ性格だ。他のパンソリで、「沈清歌」にも、そんな人物が登場する。意地悪で不細工な女を「意地悪ばばあ」というが、「沈清歌」の主人公「沈清」の継母がそう呼ばれる。利益の有無を考えず、とにかく意地悪する「興甫歌」のノルボと少し違い、目の不自由な沈清の父に、金目当てに近寄る彼女は、他人を気にせず、自分の利益だけ考える。どちらが悪者か、順位つけも容易でない。

▼ パンソリ「沈清歌」から、「意地悪ばばあの行い(뺑덕어멈 행실)」を聴く。空恐ろしさが漂うよう。

最後に、部下を考えぬ三国志の武将「曹操」を描いた、パンソリ「赤壁歌(적벽가)」について次のように紹介された。
・中国の三国志の一部を描いたパンソリ「赤壁歌」に登場する一人に、武将の「曹操」がいる。赤壁の戦いで多くの兵士が犠牲になるとき、曹操は自分の命ばかりに気をとられた。生き残った兵士と山を越えるときも同じだった。組織のリーダーがこんなキャラクターでは大変なことになる。兵士たちも曹操に歯向かおうとした。曹操が、そんな兵士たちを一々相手にする場面もある。

▼ パンソリ「赤壁歌」から、「曹操が兵士を点呼する場面(조조 군사 점고 대목)」を聴く。身近に聞く愚痴のようとのこと。

2017年7月25日火曜日

水晶果

冷たい飲み物に多種多様ある。韓国の庶民の味で、好みは「バナナ牛乳」だが、日本の店頭で見かけたことがない。乳製品の性質上、輸入販売できないという・・・そんな理由を聞いたことがある。

缶入り飲み物では、「水晶果*(수정과)」が喉ごしがいい。自販機から取り出して飲むと、冷たくて、シナモンの香りが広がり美味い。この作り方を、Youtubeにいくつも紹介がある。驚いたのは、材料の「シナモン」すなわち「ニッキ」/「桂皮」が、乾燥した皮であり、そのまま使用していることだ。てっきり粉末状にしたものと思っていたからだ。
(* 水晶果: 正式には「水生果」のようだ。鉱物趣味にとっては、「水晶果」の方がいいのだが)

① シナモンの皮を水で煮込むと茶色の液体になる。
② 別途、生姜のスライスを水煮する。
③ これら、①と②を混ぜ合わせ、(無漂白)砂糖を加えれば煮汁ができあがる。
④ 最後に、柔らかな干し柿をカップに置き、上記③の煮汁を足して冷やせば完成。

以前、ソウルの延世大学の近くにある「奉元寺」(太古宗: もしかして、イ・ソンヒの父親と縁があるのではないかと思い)を訪れたとき、< 境内に「玉泉梵音大学と霊山斎保存会」の名を記した建物があり、茶室でボランティアの方に水晶果をいただき、干し柿のサービスを受けた > ことがある。

暑い夏に、甘い香りなのに、きりりと引き締める、冷たく冷やした「水晶果」はかかせない。

2017年7月24日月曜日

原子時計

今日も暑く、湿気がべったりまとわりつく。図書館本館に行けば休館。そこで、このまま歩を進めて、標準時刻を大きく表示して見せる施設へ行ってみることにした。汗はだらだら。

励起されたセシウムが、その後、元に戻るとき放出するエネルギー(電磁波)の(固有)周波数を元に時間を決める「セシウム原子時計」を見てきた、と言っても展示品だが。大小の二つの装置が置かれていて、短期と長期の制御のための装置と聞いた・・・が、ど素人ゆえ、皆目見当付かず・・・そういうものかと納得するしかない。小型装置の内部が見えて、中心部品に大きくHewlett-Packardの文字が見えた・・・ムムム。これって、イ・ソンヒが生まれた1964年に発表されたもの(HP 5060A)の系列?

今日、明日の二日間開催の国立研究開発法人「情報通信研究機構(NICT)」本部の「夏休み特別公開」をちらり見して来たわけだ。夏休みとはいえ、今日・明日は月曜日・火曜日、完全に子ども向けに催されており、子どもたちが大勢押しかけていた。主に母親連れの理科少年少女たちといった賑わい振りだ。日本の科学の将来は明るい、頑張れ理科の子どもたち。

ところで、「情報通信研究機構」の仕事を、標準電波による時刻管理が業務の中心と思っていたらとんでもなく違っていた。それは100年前の話しのようだ。現在は、地球と宇宙を囲む、情報通信ネットワークの研究開発がメインだ。部外者の素人が気に掛けるのも何だが、情報通信ネットワークの研究については、さまざまな機構で進められているだろうから、その棲み分けはどうなっているのだろう。情報(ソフト)+通信ネットワーク(ハードウェア)は、ソフトウェアとハードウェアの混在した領分で、色々な立場からチャレンジできるからだ。

2017年7月23日日曜日

大暑 2017

今日は、二十四節気の「大暑」。連日の暑さゆえ納得するものの、昨年は22℃近くと冷え冷えしていた・・・と、ブログを見直して思い出す。その程度に、季節の変化について思い出が定かでないのだから、その他の物事をしっかり記憶できるはずもない。

(本ブログ関連:”大暑”)

外出しようか、どうしようかと迷っているうちに、一日が過ぎてしまった。

最近、南極から分離した氷塊(棚氷)が、日本に流れついたら随分涼しくなるなんて妄想する。そんな空想のできるおもしろツールが、Gigazineに紹介(7/23)された。

ドイツの新聞社「Berliner Morgenpost」が公開したもので、「南極大陸から分離した総重量1兆トンの『ラーセンC棚氷』」を地図上の任意の場所に移動できるツールだ。

関東地方の地図上にプロットしたら、その規模がとんでもなくでかいのに驚く。これじゃ、関東地方全体が極寒に戻ってしまうだろう。

ところで、昨日(7/22)、「暑気払い」に出かける途中、小学校前に栽培されていた小型のひまわりが全て刈り取られているのを見た。畑地が茶色の地肌に戻っているのに残念な気がした。でも、小学校が「夏休み」に入った後のこと・・・子どもたちに心配りしたのだろうか。

2017年7月22日土曜日

暑気払い

以前の教室仲間から「暑気払い」の誘いがあり、参加させていただいた。久し振りにもかかわらず、変わりない元気な姿と再会できたことが何よりだ。会話と食事、そして酒も加わり楽しい宴を過ごすことができた。幹事さんにいつもながら、感謝。

気付けば深夜遅くまで盛りあがり、帰途につく。帰宅すれば翌日(7/23)零時を過ぎていた。ブログの性質上(日付を尊重?して)、7/22作成とアリバイ作りする。

「暑気払い」の通り、今月の暑さは月初からのこと。何度か小雨や雷雨を経験したが、それも夜が多く、ひと月を通じて印象が少ない。「梅雨明け」宣言(7/19)も、そんな中でのことだった。なんだかズルズルと夏へ突入する。だから余計に「暑気払い」は意味がある。

(参考) 気温に関する用語: 気象庁
   ・夏日: 日最高気温が 25℃以上の日
   ・真夏日: 日最高気温が 30℃以上の日
   ・猛暑日: 日最高気温が 35℃以上の日

2017年7月、「東京」の最高気温と天気概況(気象庁「過去の気象データ検索 > 日ごとの値」より)







最高
気温
天気概況


(06:00-18:00)

(18:00-翌日06:00)




1 25.3 雨時々曇 曇後雨

2 32 曇時々雨

3 32.5

4 29.9 雨後曇時々晴

5 31.4 曇一時晴 曇一時雨

6 30.7 曇時々晴 曇時々晴

7 32.3 快晴

8 33.7

9 32.5 晴後一時薄曇

10 32.1 晴後時々曇

11 31.6 晴一時曇 晴一時曇

12 33.1 晴時々曇

13 33.4 晴後時々曇 晴一時曇

14 32.4

15 33.7 晴後時々薄曇 薄曇

16 34.9 薄曇 曇後一時雨、雷を伴う

17 35 薄曇一時雨

18 32.7 曇時々晴一時雨、雷を伴う 曇時々晴

19 31.1 晴時々曇 曇時々晴

20 32.3 晴時々曇

21 33.7





2017年7月21日金曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」竜揚水歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(7/12)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、雨水に関連する曲を紹介した。
(未聴のため、Youtube映像など参考にした)

始めに、「やり桶(용두레)」で揚水するとき歌う「竜揚水(용두레질)」について次のように紹介された。
・今春は干ばつが続き、農作に影響を与えた。今は、水利が整い揚水機もあるが、昔は干ばつが大変だったはず。国楽に、低所の水を高所の田に引き入れるとき歌う「竜揚水」がある。丸太を細長く舟形に削った「やり桶」を使う。3本柱を支えにして、紐に吊るした「やり桶」を二、三人で揺らして水を田に引き上げる。このときの歌は、息を合わせ、労働の効率を上げ、多く水を運ぶ役割をする。

▼ 京畿地方高陽の「竜揚水歌(용두레질 소리)」。

次に、昔の干ばつ時の雨乞い祭りについて次のように紹介された。
・米食の韓国では、春に田植えし、梅雨の雨を待ち望む。昔の王や政治家は、干ばつが続くと行動を慎んだ。王は普段の仕事部屋でなく、外で仕事をし、食事を減した。王の不徳で政治が滞り、天罰を受けたと考えたからだ。民と共に苦しみに耐える意もある。だが解決できぬときに、雨乞い祭りをした。囚人の赦免、貧民の救済、壊れた墓の修理などもした。雨乞い祭りは、王が主管する以外に、田舎の女性も行った。命を身ごもる女性を通じて、天の恵みを受ける期待をしてのことだ。

▼ 南道地域の女性が遊びで歌った民謡「ドゥンドンギ打令(둥덩(당?)기타령)」。子どもは可愛い。

最後に、雨乞い祭りに、神が裁くことのない女性や子どもが登場することについて次のように紹介された。
・竜は、雨を司る神とされ、地名に「竜(용)」の字が付くものが多くある。これは、雨乞い祭りがよく行われた場所だ。神が裁くことのないと女性や子どもが竜を描いた旗を持って歩いた。竜がいるとされた池に、虎を追い込むこともあった。眠っていた竜が目を覚まし、雨を降らせると信じられたからだ。雨乞い祭りは、雨が降るまで続けた。結局、100%の効果があることになる。自然に屈しない人間の意志を表したのかもしれない。

▼ 「サレバッ アリラン(사래밭 아리랑)」。「サレバッ」は、小作管理人の報酬畑を指すとのこと。

2017年7月20日木曜日

始めの15歩 イディッシュ語

15日目。今年の前期受講は、後2回を残すのみになった。思えば遠く来たものだ。でもよく見れば、スタート地点がすぐ後ろにある。(夏休みにイディッシュ漬けになるしかないのだろうか・・・)

・先生推奨の入門書(復習編):「レッスン2」(דער לערער און די תּלמידים אין קלאַס)のExercise。先生手作りの問題で、本文中の空欄に動詞を穴埋めする。世界に住むユダヤ人の人口マップを紹介された。
(テキストを復習したにもかかわらず、穴埋めどころか穴だらけ・・・となる)

・先生紹介のネット公開教材ソフト(YiddishPOP)の「レベル2-5」(!הײַןט בױען מיר אַ סך )。スティックを使って模型の家作り。材料の依頼に関わる動詞の命令型、家の構造に関わる名詞の複数形など確認。

・先生がネットで見つけた、古いイディッシュ語の初級教科書「דער אָנהײבער」(The Beginner)から、柱時計の時刻を見て、一生懸命答えようとする小さな女の子と、それを暖かく見守る母。(いかにも賢い子どもが育つ環境だと話題になる)

他の言語を専門にする若い参加者と先生の間でとりかわされた話題を傾聴する。言葉と民俗(あるいは民族)の気質は、密接なつなりを持っているに違いない。

(本ブログ関連:”始めの ~歩 イディッシュ語”、”イディッシュ語”)

私ら世代に知らぬものがない、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」から「日は昇り、日は沈む」を聴こう。人生は一粒の種。やがてひまわりの花が美しく咲く。


(Youtubeに登録のMsLijeBaileyに感謝)

2017年7月19日水曜日

イ・ソンヒ 「なぜ私だけ」

イ・ソンヒの人気曲を知りたければ、カラオケで歌われる彼女の曲目リストを見ればよい。もちろん、素人には難曲もあるだろうけど、気にしないで歌うものだ。もしかして、独りカラオケなんてこともあるから。(私も、やってみたいと思いながら、独りカラオケにはいまだに躊躇する・・・何を今更!)

(本ブログ関連:”(資料)イ・ソンヒのカラオケ・リスト” 2015年8月2日現在)

イ・ソンヒの6集タイトル曲「なぜ私だけ(왜 나만)」(1990年、作詞・作曲:チョ・ハムン)は、叙情的で、情感交えて素人が歌うには難しいと思うが、カラオケリストにランクインしている。ファンにしてみればチャレンジしたい曲なのだろう。
イ・ソンヒの「なぜ私だけ」については、本ブログにこれまで何度か触れてきたので、ここでは、例によって「歌詞」を以下のように記してみた。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒの「なぜ私だけ」”)


いつか言葉を失いました  笑うことさえ去ってしまい
月日をはかる道はなくて  想いだけがあふれています
疲れ果てとても疲れて  涙さえ枯れてしまって
愛も知らない  そんな人になってしまいます

なぜ私だけ 涙を流さねばならないの  それも誰にも気付かれず
なぜ私だけ 痛み持たねばならないの  手が触れぬ暗闇のなかで
これが私の 行く道ならば  どうすべきなのですか

いつか言葉を失いました  笑うことさえ去ってしまい
疲れ果てとても疲れて  涙さえ枯れてしまいました

なぜ私だけ 涙を流さねばならないの  それも誰にも気付かれず
なぜ私だけ 痛み持たねばならないの  手が触れぬ暗闇のなかで
これが私の 行く道ならば  どうすべきなのですか(繰り返し)


(Youtubeに登録の트로트7080に感謝)

(追記)梅雨明け
ハフィントンポスト紙(7/19)によれば、「きょう(19日)、気象庁は関東甲信、東海、近畿、中国地方の梅雨明けを発表しました。いよいよ夏本番です!」とのこと。平均より2日早いそうだが、貯水池の推量が、逆に気掛かり。(7/20追記)

2017年7月18日火曜日

東京 今年初めての猛暑日

今日は一日中蒸し風呂状態。暑さを逃れるのに空調に馴染めず、扇風機で体表の熱気を飛ばすにとどめる。筋肉が落ちたせいだろうか、扇風機の風だけで肘の辺りが冷たく冷え込んで、それだけで体調が怪しくなる。外出して、冷房のきいた所に長居できないのだ。

今日の熱気について、ハフィントンポスト紙の記事(7/17)は、「気象庁は7月17日、東京都心で気温が35度に到達したと発表した。東京都心としては、2017年初の猛暑日を観測した」と報じた(抜粋)。ついに、夏の地雷を踏んだようだ・・・このままいけば梅雨明けも間近という。・・・午後には雷雨が襲い、暑さも小休止した。

(参考) 気温に関する用語: 気象庁
・夏日: 日最高気温が 25℃以上の日
・真夏日: 日最高気温が 30℃以上の日
・猛暑日: 日最高気温が 35℃以上の日

それでも家にこだわるのは、イディッシュ語の準備のため、ネットのオンラインツールを利用しないと手も足も出ないからだ。
・オンライン・キーボード
・オンライン辞書
・オンライン翻訳
・Wikitionary(基本動詞の活用Conjugationを確認できる!)
便利なツールを、自宅のPCで利用するしかない、外出用ノートブックPCもスマートフォンも持っていないのだから。

ところで、Amazonに発注した「Modern ENGLISH-YIDDISH  YIDDISH-ENGLISH」辞書(U. Weinreich)がようやく届いた。学習者に必須といわれる辞書で、厚さと重さに、それだけで一段落したような気にさせるものがある。使いこなさなければいけないのに・・・、ああ、また汗が吹き出た。

2017年7月17日月曜日

イ・ソンヒ 一日2~3時間新聞を読むこと

イ・ソンヒは、一日、2~3時間かけて新聞を読むそうだ。朝鮮日報の記事「『1日、2~3時間新聞精読 公演の時にも大きな助け船です』 歌手イ・ソンヒさん」(6/24、キム・ソンヒョン記者)によれば、昔から新聞の熱心な読者のようで、その習慣を守り続けているようだ。

昨年、彼女は朝鮮日報の「読者権益保護委員」となって、<「公正な新聞、正確な新聞、信頼される新聞(공정한 신문, 정확한 신문, 신뢰받는 신문)」を原則に、毎月会議を持って読者観点でこの原則が守られたかを監視して討論している> という。生真面目なイメージする彼女に似合っている。

(本ブログ関連:”イ・ソンヒ、朝鮮日報の「読者権益保護委」を委嘱される”)

ところで、彼女が世代を共有する、いわゆる386世代の意識として、メディア選択に新聞の比重が大きいのかどうか・・・このあたりの(50代の)リテラシーについて資料があれば読みたいものだ。

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今年デビュー34年目を迎えた歌手イ・ソンヒさんは、「朝型人間」である。午前7時ごろ、ソウルの二村洞の自宅で起きると一番最初に手に取るのが朝刊紙である。(6月)21日に会ったイ・ソンヒさんは、「今日は忙しくて、タイトルだけを目を通してきた...」と言いながらも、経済の懸案をずらりと列挙した。(略)

頭の痛い時事問題は、歌手とはあまり関係のないことと思いやすい。しかし、イ・ソンヒさんは違った。「今日は、経済界の人たちの前で歌ったが、明日は労組幹部の前でも公演しなければならないのが歌手なんです。新聞を読んで、この方々が普段どのような悩みをするのか、どのような問題に関心があるのか注意深く見守っていると、歌の途中で言葉を一言いうにも十分に役に立ちます」

イ・ソンヒさんの「新聞愛」は、幼い頃に両親に学んだことでもある「1970〜1980年代の家庭では新聞の朝刊を朝開くことが日常的な姿だったじゃないですか私たちの家もそうでした。朝の新聞に、私の記事が載る日は、明るく笑って喜んだりしましたね」

昨年(2016年)、朝鮮日報の読者権益保護委員会の委員になって、新聞を読む時間もともに増えた。「きちんと精読しようと心に決めた日は、1日2〜3時間ずつ新聞を読もうと努力しました」
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2017年7月16日日曜日

路に立つ木は曲がって

子どものためのサイト「Yiddish far Kinder」の「」のページに紹介されている、イディッシュ語作家イツィク・マンゲルの詩「路に立つ木(אויפֿן וועג שטייט אַ בוים)」(Itzik Manger 1901年~1969年)は、歌にもなって、いろいろな歌手が披露していて、子守歌の範疇にも紹介されているようだ。

上記サイトには、この詩の簡単な紹介とともに、原詩イディッシュ語 - ローマ字表記(転写)- 英語訳を並列したpdfもある。(素直な)英語訳を参考に、この詩(歌)の見聞きすると、こんな感じだろうか。(イディッシュ語については、いつかチャレンジしたい)
母から飛び立ちたいと願う息子(Itsik)だが、寒さを案じる母は衣(ころも)を着重ねさねさせようとして・・・いつか、その衣が母の想いだったと気付くことになる。路に立つ木は曲がっていて、木のすべての鳥たちは飛び立った。

この歌(詩)は、次のYoutube(アニメ)で初めて知ったわけで。母親の無限の愛を感じさせる。アニメの中で、空を漂うさまに、シャガールの絵を思い出す。歌は、1951年、Leo Fuldによって歌われヒットしたそうだ。
次のアニメは、Efim Chernyの歌によるとのこと、童謡なような親しみやすさを感じる。


(Youtubeに登録のshosh38に感謝)

■ 作者イツィク・マンゲル自身によるイディッシュ語朗誦もある。いつか、聞き取れることを願ってリンク先を記す。
https://www.youtube.com/watch?v=RnhQHQrJj6Q


(付記)エセーニンの「母への手紙」
母親に対する思いを、さまざまな作品で知ることができる。なかでも、内村剛介訳のエセーニンの詩「母への手紙」*は忘れられない。エセーニンの生涯と重ねて読む(理解する)のとは別に、素直に共感できるものがある。うるさく思った母親の気遣い(しぐさ)が、実は心深く残っている。
(* Youtube:この登録者77easterly77の解説「もっと見る」には、英訳も併記されている )

2017年7月15日土曜日

(雑談)CAIについて

(一)
昔、CAI(コンピュータ支援教育)といって、コンピュータを介して学習する仕組みが叫ばれた。CAIは、オーディオ機器がずらりと並んだ語学のLL教室が普及し始めた頃に、追いつくように始まった。新しもの好きの教育関係者が飛びついたのはいうまでもない。

大型コンピュータの端末(TSO)で始めるには余りにコストがかかり過ぎた。せいぜい単一目的の技術研修や訓練用といった、機能検証扱いだった。それが、パソコン(当時はマイコン)が登場することで、ようやく学校教材の一部を適用できるまでになった。結局は、市販教材ソフトに見るべきものがないままに終わった。なぜなら、一般の印刷教材の穴埋め問題集でしかなかったからだ。

CAIの教育ソフトの背景を担ったのは、スモールステップで理解を重ねるプログラム学習方式だった。プログラム学習は行動理論先行で、まるで職業訓練用テキストのスタイルだった。大学教養程度の心理学や経済学をプログラム学習で学ぶ教科書が出版されたりしたが、うまくいかなかったようだ。そのことについて、触れたくないのだろうか、そんな経緯を記した関係者による文章を見かけない。

現在では、e-ラーンニングと呼んで、主にネット環境で学ぶ学習スタイルに衣がえしたようだ。個人の学習進度まで管理できて、こちらの方は、意外に企業内研修や資格取得などのための講座で、一般に余り知られてないが、使われているようだ。(かなり商用化が進んでいる)

ところで、企業内教育について、こんなことを語った本(書籍名は失念したが)を読んだことがある。企業内教育は、その到達が企業内であって、一般の教育のように枠を超える成果を求めるものではない、といった内容だった。企業内教育は、その組織に必要な技術や智識を習得するものであって、人間として成長を求めるものではないということだ。

企業内教育の期待は、敷居(閾値)が意外と低いといえる。経営の指南書も、目標が企業目的と合致して、利益の最大化を図る(効率化を重視して、のりしろをカットする)という解がある限り、ハウツーの域を出ないだろう。それに対して、子どもの教育に求められるのは、いかに大きなのりしろを作るかということだからだ。

(二)
CAIに見られるような、知識をシステマチックに吸収できるかという課題が残る。企業内研修の場合、学習者はその意識も欲求もすでに持ち合わせている。子どもの場合はそうはいかない。学校の授業は、特別な資質の子を除いて、普通の子どもには難行でしかないからだ。

システムは、学校教育で子どもたちに貢献できるだろうか。見た目に知識を増やせるかもしれないが、決定的な問題がある。それは、知識をどんなに早く視聴覚化しても、それを脳内に定着できないということだ。記憶力を高めるのに有効かもしれないが、記憶力を付けるものではない。ただし、今までなら遠に放棄したかもしれない学習を、何とか持続する支えになっている気がするが、学習の外側のツールとしての有効性に変わりない。

システムは、思考の外側のツールでしかない。

少し、道外れする。一般にシステムは、頭脳に伝えるツールとして有効だが、頭脳から出す先としては要注意が必要だ。

システムは、単純な手入力のミスで、とてつもない大きな被害をもたらすことがある。それだけではない、システムに不注意な発言を登録すると、その結果が記録され、死後も永遠に残ることだ。本人の口から語られたあかしとして、墓碑銘どころでなくなる。SNSに語ることは、ある意味覚悟がいる。

特に、Twitterでどれほど大火傷していることだろう。脳内の知恵と相談しての発言なのだろうか。脳内に届かぬままに、反射的に言葉を吐き出していないだろうか。その記録は、日記といった限られた紙資料と違い、それこそシステマチックに(縦横に)分析され、色々な情報が取られることになる。

言葉は脳内で一旦咀嚼してから出すものと、庶民は生きる知恵としてそうやって実践してきた。

2017年7月14日金曜日

「きぼう」の Int-Ball

Jaxa(宇宙航空研究開発機構)の発表記事「きぼう船内ドローン『Int-Ball』からの映像初公開!」(7/14)に、何ともかわいらしい随伴型のドローンが紹介された。国際宇宙ステーション(ISS)の日本の実験棟「きぼう」の中で、宇宙飛行士が業務と併行していた撮影作業を代行する、自律移動型船内カメラだ。

無重力の室内、自由に移動が可能(12台のマイクロファンによる並進制御機能*)のようだ。しかも、撮影した映像を地上の管制官らも同時に確認できるという。これを介して随時適切な助言も可能になる。
(* 資料:「JEM自律移動型船内カメラについて」)

その「Int-Ball」の紹介映像を見て、いかにもアニメ好きな日本の製品らしい感じがした。ロボットクリエーターの高橋智隆氏のロボット「Robi」のデザインが浮かんできたが・・・関係されているのだろうか。
それはそれとして、Youtube映像に流れる音楽が、まるで子ども向けテレビ番組のようでおもしろい。母親に付いて回る幼児のイメージがするのだ。日本人は、対象を幼いイメージにして作り上げるかんどころがあるようだ。
・・・映像の最後に、電源が切れたといって、床に落ちるなんて・・・無重力でしょ、まったくアニメ感覚なんだから。もしかしたら、「Int-Ball」の正体はケロロ軍曹かもしれない。

遠い宇宙のISSの中、安全で正確な作業が要求される場面で、「Int-Ball」は宇宙飛行士にとって癒してくれる信頼できる相棒になるだろう。これが、私の部屋にいたら監視されているようで、少々厄介なのだが・・・でも、ぐうたらな日常を叱咤激励してもらうために悪くはない、なんて考えてしまう。


(Youtubeに登録のJAXAに感謝)

2017年7月13日木曜日

始めの14歩 イディッシュ語

14日目。先日の九州方面の豪雨災害と反対に、こちらは連日猛暑が続いている。教室へ通う途中、あまりの暑さに喫茶店でしばらく涼んだけれど、教室に着いたとたん汗が吹き出た・・・もしかしたら、イディッシュ語理解不足のせいで、冷や汗が出たのかもしれない。

・先生推奨の入門書(復習編):「レッスン1」(ייִדן אין אַלע לענדער)の Exercise の残り(F)を回答:短い英文をイディッシュ語に訳し、筆記体にしてホワイトボードに書くこと。

・先生紹介のネット公開教材ソフト(YiddishPOP)の「レベル2-4」(פֿרײַטיק באַק איך חלה)。バスケットボールをするスケジュールの相談・・・月曜日から日曜日まで予定を確認する。① 動詞が、文の構成単位の第2番目に置かれること。② 主語が דו の場合、「動詞(סט-)+主語(דו)」を、(סטו-)の形式に短縮できること。

(余談)素人そのものの質問だが、日本の「お盆」と似たものが、イスラエルにもあるのかうかがった・・・先祖供養というか、先祖と一体感を持って、一族が集うような風習があるのか知りたくて。(極東の日中韓でも先祖の捉え方は大部違っているように思うのだが、まして神との契約主体のユダヤ社会ではどうなのだろう?)

(本ブログ関連:”始めの ~歩 イディッシュ語”、”イディッシュ語”)

(音楽の宗教的意味合いについて存じませんが、とはいえ余りにも有名な・・・容赦を)

(Youtubeに登録のThe Soul of Jewish Musicに感謝)

2017年7月12日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 李白詩

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(7/5)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、唐代の詩人「李白」(701年~762年)に関連する曲を紹介した。

始めに、唐代詩人「李白」が「黄鶴楼」で「崔顥(さいこう)」の詩に出会った話しについて次のように紹介された。
・中国唐代の詩人「李白」は酒を好み、酒仙と呼ばれた。また、月が好きなため、韓国民謡に「明るい月よ、李白が遊んだ頃の月よ」という歌もある。彼の言葉全てが詩になるほどの才があり、詩仙とも呼ばれた。ある日、詩作するつもりで、長江岸の「黄鶴楼」に登ったが、楼壁に「崔顥」の「昔人已乘黃鶴去/此地空余黃鶴樓」で始まる詩が書かれているのを見た李白は感嘆し、「これ以上の詩は作れない」と筆を片付けて帰ったという。

▼ 崔顥の詩「登金陵鳳凰臺」を歌にした「昔人已に去り(석인이승)」を聴く。朗々とうたいあげる。

次に、李白の詩「登金陵鳳凰臺」と民謡の「ユクジャベギ(육자배기)」について次のように紹介された。
・黄鶴楼を後にした李白は金陵(現南京)の「鳳凰台」に向かい、そこで有名な「登金陵鳳凰臺」の詩を作る。「鳳凰台上で遊んでいた鳳凰が去ってからは、長江だけがゆったりと流れている」といった内容だ。中でも「三山は半ば雲に隠れ、長江は二分して流れる」の部分は、韓国の昔の歌によく引用され、民謡の「ユクジャベギ」にも登場する。六拍を単位に歌うことから、曲名に数字の「六(ユク육)」が入っている。

▼ 南道民謡「ユクジャベギ(六字もの)」を聴く。高低強弱と変化に富んで、随分と声を揺らす。

最後に、管楽器「センファン」と「タンソ」による「水龍吟(수룡음)」の曲について次のように紹介された。
・「ユクジャベギ」一曲だけもあれば、少し早い拍子の他曲を続けて歌うこともある。李白や崔顥は、名勝で優れた詩作をしたが、この初夏に、私たちも都会を離れ、景色の良い楼閣で、風の音、水の音など自然の音と共に心身癒してみたい。
・管楽器の「センファン」と「タンソ」は、よく似合う楽器とされ二重奏される。水中の竜が歌う音の意の「水龍吟(수룡음)」の曲があり、二つの楽器が調和して奏でる不思議な音色に、安らかな一時を過ごしたい・・・とのこと。

▼ センファンとタンソ演奏による「水龍吟」を聴く。<自然が感じられる>という透明感のある演奏。

2017年7月11日火曜日

イ・ソンヒ「たぶん」

イ・ソンヒの12集所収の「たぶん(아마...)」(2001年)は、たぶん切ない恋歌なんでしょうか、通じぬ哀しみが伝わってきます。でも、ここでは、夏の夜風を受けて涼むよう歌って見える彼女のYoutube映像を眺めましょう。今日みたいな熱気のさめぬ夜には最高です。

それにしても、歌詞の世界だけみれば、女性の心は繊細で複雑で・・・と思いますが、たぶんスイッチを切ると、過去の想いは一瞬にして消え去ることでしょう。それに比べて、自然放電に任せるしかない男は、切り替え方が不器用なようです。ああ、夏の夜の夢にもならぬ話しを、たぶんしてしまい・・・。

(本ブログ関連:”たぶん”)


その人の話し、しましょうか。 悲しい私の愛、聞き入れることができますか。
馬鹿でしょ、言葉ひとつできず、一人で胸を痛めるなんて。 私のそばにいても、
分かってください。 そんな気持ち、彼を見るたび、いいえ、私余計なこといい始めたようです。

*もう、その人には、命のような、そんな大事なものがあるのでしょう。
*永遠に、私は堪えられない話をできないんです。 愛するという言葉は、たぶん・・・

なぜか、涙が止まりません。 つまらないでしょう。 私の気持ち分からなくて。
あなたがくれたハンカチに、涙とともに滲み出た言葉、それはあなたなのに。
本当に分からないのですか。 私のこんな気持ちを、いいえ、余計なこといい始めたようです。

(*2行繰り返し - 2度)


(Youtubeに登録のlys2187に感謝)

2017年7月10日月曜日

ヘブライ文字のオンライン「キーボード」とイディッシュ語「辞書」

先日6/30の「”YiddishPOP”と 夏休み『イデッシュ語入門講座』」と、7/2の「イディッシュ語の文字」の続きです。

イディッシュ語で使う「ヘブライ文字」の練習をキーボードでしてみましょう。キーボードといっても、オンライン・キーボードで、ネット上で入力します。次に、オンライン辞書にも触ってみましょう。もちろんみなフリーのツールです。
(各ツールに感謝です)

A. ヘブライ文字用の「オンライン・キーボード」と「辞書」を利用してみよう
試しに、「机」の意のヘブライ文字「טיש」を、「オンライン・キーボード」で入力し、さらに「オンライン辞書」(イディッシュ語 ⇔ 英語)で確認します。

① オンライン・キーボード
・次のリンク先で、「オンライン・キーボード」(” Lexilogos ”)画面を開きます。
   http://www.lexilogos.com/keyboard/yiddish.htm
・リンク先画面で、ヘブライ文字「טיש」の3文字を打ってみましょう。
   ⇒ 画面下側に配置された文字キーをクリックすると、一つずつ文字が、右→左へ表示します。
・表示された、ヘブライ文字「טיש」をコピー(Ctrl+C)して、次の②の「オンライン辞書」で確認してみましょう。

②  オンライン辞書
・次のリンク先で、「Yiddish Dictionary Online」画面を開きます。
   http://www.yiddishdictionaryonline.com/
・この辞書の使い方の解説を、「טיש」の単語を元に例示していますので、ちらり見ておいてください。
・3番目のラジオボタンを押して、①でコピーした「טיש」をペースト(Ctrl+V)し、検索(Go)してみましょう。
   ⇒ 「טיש」は、英語の「table」
・ちなみに「טיש」は、ローマ字と次のように対応します。
   ⇒ 「ש(sh)」←「י(i)」←「ט(t)」です。(右→左へ読みます)

※ オンライン・キーボードで、イディッシュ語の文章も作成できます。興味ある方は、「Google翻訳ツール」で、<イディッシュ語 ⇔ 英語> の翻訳も試してみましょう。でも、最近気付いたのです。手書きをおろそかにするものじゃない・・・とね。


B. 夏休み「イデッシュ語入門講座」
3日間で学ぶ、イデッシュ語入門講座があります。イディッシュの古い伝統を、先生からうかがういいチャンスでもあります。
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・日時:8月29日(火)~31日(木)、10時00分~13時20分(休憩20分含む)
・場所:東京外国語大学 本郷サテライト
・講座内容や申込みについては、次の「案内」をご覧ください。
    ⇒ 夏期間「イディッシュ語」
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ここで一息、美しいイディッシュの旋律を聴いてみましょう。

「キャンプファイヤーを囲んで」は、火の尽きるまでたのしもう、消えたあと空には星々が冠となって輝く、そんな様子を歌っているようです。そして、眠りについたら夢をめぐりましょう。学のサマーキャンプとちょっと違った、生活の一場面かもしれません。


(Youtubeに登録のJoe Krapovに感謝)

2017年7月9日日曜日

ラファエロ《 大公の聖母 》

上野にある国立西洋美術館で開かれた「ラファエロ」展に行ったのは、2013年3月のことだった。あっという間に4年が過ぎたのに驚く。ラファエロの絵画には、身構える必要のない親しみやすさがある。ぜひ見たいものがあった。「大公の聖母」の絵だ。暗い背景から聖母子が浮かびあがってくるよう描かれていた。

(本ブログ関連:”ラファエロ”)

子どものころ見た聖母像は、教会が配ったのだろう、滲んだ色刷りの図像だった。教会は、小高い丘の上にあった。遠くに眺めるだけの、近寄りがたい世界、そんな気がした。聖母像も、丘の上の一つのイメージでしかなかった。
後に、ラファエロの聖母像を知ったとき、懐かしさを感じた。聖母像が、日常の素朴な回路でつながったのだ。それは、かつて美術家に批評(批判)された、ラファエロの世俗さだったのかもしれない。

親和性のある聖母像。それは、誰かに見続けられていた。その見方について考えてみた。以前、「作品には3つの立場があるように思う。作品の制作者という立場(所有者と見る者を意識する)、作品の所有者(見せる側)、見る者(見る側)」と記した。ひとつの作品も、見る場所、見る時代が違えば、その存在意味も異なるだろう。かつての見る者(見る側)は、今見ているわたしたちと違った姿になってが浮かんでくる。

(本ブログ関連:”遠近法”)

優しい眼差しにつつまれた聖母子像をどう捉えよう。愛された経験を確認するものだけが見るのだろうか。慈愛を知らない人びともいたことだろう。そんな満たされなかった経験から、精神の癒しを渇望した彼らがいなかっただろうか。宗教画が、時代を経て見続けられるのに、どんな意味があるのだろうか。

子どもが、愛情にくるまれる時代がある。でも、そうでなかった、厳しい時代もあった。その中で生き延びたものもいる。生き延びれなかったものもいる。そして、そんな子どもたちと、ひとびとは直面したことだろう。道徳の尺度はだれから与えられるのだろうか。

若いころ、芭蕉の「野ざらし紀行」(「日記紀行集」所収、塚本哲三 校、大正11年)に、三歳ほどの捨て子の話しがあるのを知った。このできごとを、道徳的にどう解釈すればよいのだろう。いかなる解であれ、言葉にする危さを感じざるえない。
もし、この子が奇跡的に救いがあって、命をながらえたなら、そのご何に癒しを求めただろうか。今はその方が気になる。
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富士川の邊(ほとり)を行くに、三つばかりなる捨子の、哀(あはれ)げに泣くあり。此(こ)の川の早瀬にかけて、浮(うき)世の波をしのぐにたへず、露ばかりの命まつ間と捨て置きけん。小萩がもとの秋の風、 今宵(こよひ)や散るらん、明日(あす)やしをれんと、袂(たもと)より喰(くひ)ものなげて通(とほ)るに、
      猿を聞く人すて子に秋の風いかに
いかにぞや、汝父ににくまれたるか、母にうとまれたるか。 父は汝を悪(にく)むにあらじ、母は汝をうとむにあらじ。只(ただ)是(これ)天にして、汝が性のつたなき*を泣け。

(* 性のつたなき - うまれつきの不運)
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いまひとつ疑問がある。宗教画や彫刻はアートだろうか。そこに並べる限り、庶民の(かつての)慟哭が聞こえてくるだろうか。

2017年7月8日土曜日

イ・ソンヒの9月豪シドニー コンサートチケット発売

イ・ソンヒの昨年来のコンサート「The Great Concert」が、今年5月の米LAに続き、来る9月に豪州シドニーで開催される。その情報が(豪州版?)の「itap」(7/6)に掲載されていたので、あらためて、ユニークなシェル構造の外壁を持つ開催場所「オペラハウス」の(イ・ソンヒの)イベント案内を参照した。なお、チケット販売は、7月6日(木)午前10時に一般公開されている。

(本ブログ関連:”The Great Concert”)
(本ブログ関連:”LAコンサート”、”シドニー”)

開催案内
「数限りないヒットソングを持ち、全ての世代に愛される韓国の歌姫 イ・ソンヒがライブ『The Great Concert』とともにシドニーへ来る。」

開催日時
・2017年9月27日(水)、午後8時(2時間30分)

チケット料金(豪州ドル: 1ドル≒86.6円)
・VIP $249
・Gold $189
・Silver $139
・Bronze $99

大ホールの座席図(収容席数 2,679席)

2017年7月7日金曜日

ひまわりとミツバチ

夏を思わせる昼過ぎ、近所の「ひまわり畑」に寄る。腰丈ほどの小型のひまわりが畑を黄色に染めていた。郊外の宅地の間に残った農地ゆえ、映画「ひまわり」のシーンに見る圧倒的な光景とは違うのはいうまでもない。でも、畑地の横を通り過ぎる人びとは、しばし歩を休めて黄色の群生に目を向けていた。

(本ブログ関連:”ひまわり”)

考えてみれば、ひまわりの花弁の構造を正確に言いあてられない。太陽のプロミネンスのように外周に広がる花弁と、まさに核融合の連鎖を繰り広げるように中央に密集する花弁がある。外側の花弁を「舌状花」、内側の密集する花弁ひとつずつを「管状花」と呼ぶ・・・そうだ。

花弁の名称の違いは、行きずりの観察者にとっても、蜜をさがすものにとっても知らぬことだろう。でも、太陽の陽射しを受けて、花弁に食い入るものたちには共感がある。(一方的かもしれないが)そんな気にさせる。

ひまわり畑にみつばちが訪れていたのだ。彼らは、春先から花蜜を求めてせっせと働いていたに違いない。そんなみつばちの存在を忘れていたことに気付き、自然の営みに気付き、生命への畏怖というか、なぜか申し訳なく思う自分の存在にようやく気付いた。

画面をクリックするとみつばちが見えてきます

七夕 小暑 2017

昨日の帰宅道、母親の自転車に乗った子どもたちと随分すれ違った。母子が会話を楽しんでいる光景はいつもと変わらないが、なぜか子どもたちが小さな笹竹を大事そうに抱えていたのだ。

そうか、きょうは、「七夕」だ。昨日の母子は、星に向かってする願いごと(七夕の短冊)を話題にしていたのだろう。それに、二十四節気の「小暑」でもある。九州地方の豪雨災害を免れた当地は、梅雨とはいえ、本格的な暑さを経験している。今週土曜日までこの空模様が続くという。

(本ブログ関連:”七夕”、”小暑”)


突然だが、「老害」について語ってみたい。歳を十分重ねても地位に連綿するさまだ。過去の「成功体験」にこだわって、時代にそぐわぬ発言をする人物を思い浮かべるかもしれない。確かに大きな老害の一つだが、もう一つある。過去の失敗を履き違えて、幻想の城を築き篭城したものたちだ。まさに、その「虚城」から出撃を繰り返し、中には、海外に移住して、伝道師の如く舞い戻って来るものもいた。

若者たちが置かれる時代と運命を共にし、担うことができない存在と覚ったとき、舞台から退くべきだろう。そして、トタン屋根がぼろぼろに錆びて朽ち果てる前に、一線を去るべきだ。市井のひとびとは、自然にそれを受け入れて後進に譲ってきた。老害といわれるのは、そのチャンスを失ったことだ。発言するものにはそれを見極める責任がある。

「成功体験」を持ったことも、「虚城」に籠り続けたわけでもないけれど、ひとなみに老いを感じれば、老犬の毛並みがやつれているのに心痛めるように、老害についても気掛かりである。高齢化社会で、立ち位置を見誤ると、若者たちのあるべき場所、いや運命まで奪いかねない。

七夕の若い男女の願いを彼方から見守るように、時代への余裕が欲しいものだ。

2017年7月6日木曜日

始めの13歩 イディッシュ語

13日目。ここ連日、九州方面を襲った豪雨と比べて、関東の空は晴れ渡った。イディッシュ語教室の帰り道、例年の通り、小学校前の畑地に育った腰丈ほどの小さなヒマワリがいっせいに花を開いた。西陽を背にして、ヒマワリの黄色の花びらが濃く映えた。

・先生推奨の入門書(復習編):「レッスン1」(ייִדן אין אַלע לענדער)のExercise。実は、YIVOサイトに、Exerciseの解答が提示されているが、自分なり解答しようとすると実力が露呈する。(我がメッキ蒸着の何と薄いこと)

・先生がネットで見つけた、古いイディッシュ語の初級教科書「דער אָנהײבער」(The Beginner)から、母が子どもたちへ物語を聞かせる様子。(これから、ぐんぐんピッチが上がることが予想される)

・先生紹介のネット公開教材ソフト(YiddishPOP)の「レベル2-3」(?ראָבאָטן פֿליִען נישט)。音楽会へロボットと一緒に出かける。否定形(נישט:~ない)が、動詞の後に付くといった日本語風の表現(?)に驚く。

さらに、ユダヤ教の指導者ラビの資格や生活、それを取り巻く市民の宗教的規範など、外部の人間が素朴に持つ関心ごとについて解説いただく。

(本ブログ関連:”始めの ~歩 イディッシュ語”、”イディッシュ語”)

(音楽の宗教的な意味合いについては全く存じませんが・・・容赦を)

(Youtubeに登録のにThe Soul of Jewish Music感謝)

2017年7月5日水曜日

KBS WORLD「国楽の世界へ」 水宮歌

KBS WORLD「国楽の世界へ」は、先週水曜日(6/28)に文化的なキーワードに基づく韓国文化シリーズとして、パンソリの「 水宮歌(수궁가)」など関連する曲を紹介した。

始めに、パンソリ「水宮歌」と、三国統一の「金春秋(김춘추、武烈王)」について次のように紹介された。
・パンソリ「水宮歌」で、南海を治める竜王の病を治すため、ウサギの肝が必要となる。カメはウサギを探すよう命じられ、陸に上がってウサギを騙し王の元へ連れてくる。それに気づいたウサギが、今度は竜王を騙して命を救う話だ。単純な話に、色々な逸話が加わり4時間に渡る長い歌になる。ウサギのように嘘つくことで危機を脱する逸話がある。三国史記に登場する、高句麗、百済、新羅の三国統一の立役者「金春秋」の時代のこと、新羅の金春秋は高句麗に援助を求めたが、監獄に入れられ命まで危うくなる。嘘をついてでも脱出する話を知り、それに成功した金春秋は、新羅に戻って王となる。

▼ パンソリ「水宮歌」で「竜王が新しい建物を建てて宴会を開くが、無理をして病気になってしまう」という、「竜王が病気になる場面(용왕 득병하는 대목)」を聴く。漢字ばかり・・・で。

次に、パンソリ「水宮歌」の原形を釈迦の「本生経」の逸話に遡って次のように紹介された。
・泳げないウサギは、竜王と会うのにカメの背に乗って海中に入る。その様を寺の壁画などで見かける。嘘について、仏教では釈迦の逸話をまとめた「本生経」に記してある。ここではワニとサルが登場する。ワニとサルは友だが、ワニの妻がサルの肝を欲しがる。サルは釈迦であり、ワニの妻は釈迦と争った提婆達多にあたる。この話を原形に、ワニとサルが、ウサギとカメになり、歳月をかけ逸話も加わり、パンソリ「水宮歌」となる。ユネスコ文化遺産のひとつとなる。

▼ 子どもにも歌いやすくした「ウサギ ウサギ(토끼 토끼)」を聴く。ウサギが飛び跳ねるよう、今様に。

最後に、水宮歌にある絶えず襲う危機を、人生の姿にたとえて次のように説明された。
・水宮歌では、絶えず危機が訪れる。最初の危機は、世の中の権力を持つ竜王が病気で死にかかること。海に暮らすカメが王の命令で、命がけで陸に上がること。そして、ウサギを逃がしてしまったこと。ウサギにしても、カメに騙されて死にかかったこと。陸に戻る途中色々な危機に直面することなど、一時も安心できない。
・水宮歌の、絶えず襲う危機から乗り越える姿は、私たちの人生を教える話なのかもしれない・・・とのこと。

▼ 水宮歌をアレンジした、困り果てた意の「ナンカムハネ(난감하네)」を聴く。軽快に困っている、今様に。

2017年7月4日火曜日

悲しき街角

今が全てだ。過去なんてどうでもいい、未来は俺たちが作る。若者たちはみなそう思ってきた。これからもそうだろう。

そんな強気が懐かしい。でもその一歩手前の経験が、案外、重しになっているのかもしれない。イディッシュ語の古い教材の挿絵を見たとき、中学校時代に手にした英語教科書「Jack & Betty」(開隆堂出版発行)を思い出したのだ。
情報をいとも簡単に入手できる今と違って、豊で素晴らしい世界が想像だけでしかなかった当時、映画館のスクリーン上の総天然色映画や、白黒ブラウン管のテレビ番組で確めていた。教科書「Jack & Betty」は、学校教育の窮屈さを合わせ持ちながら、他方で向こうの世界へ続く通路でもあった。アメリカの臭いがした。

テレビは座敷に置かれていた。そして、家族みなで見た。だからホームドラマが主流だった。特にお気に入りは、「パパはなんでも知っている」だ。「Jack & Betty」が誘う先にある期待の家族像がそこにあった。理想の夫婦(外で働くしっかり者のパパと、家庭を守る優しいママ)であり、個性を重視した子どもたちによる ”アンダーソン” 一家がそこにあった。

ところで、アメリカに対して、焼け跡派の屈辱感といった感情より、取り入れたい文化の象徴、あこがれの対象だった。ラジオから流れるアメリカンポップスに耳を傾け、ビルボードやキャッシュボックスのランク情報を如何に知っているか競い合った。どっぷり漬かっていたのだ。(ビートルズ以前のこと。だから、ビートルズショックを広言するニセ受洗者にはなりたくないといった矜持をいまだに持っているつもりだ)

今日みたいに雨が降れば、EPレコードのタイトルに連なった「悲しき~」シリーズの、カスケーズの「悲しき雨音」(1963年)を思い出す。その頃の、アメリカンポップスがどんなものだったか、Youtube映像であらためて確めて見ると、同時代のデル・シャノンの「悲しき街角」(1961年)に驚く。(だからといって、過去を簡単に売り渡すほどおしゃべりじゃないつもりだ)


(Youtubeに登録のWhuntmoreに感謝)

2017年7月3日月曜日

リンゴ半分、今年後半のスタート

本来なら、切りのいい7月1日に書くべきだった。今年後半がスタートしたのだ。

一年をリンゴの実に例え、立て切りにすると、残り半分しかないのだ。片方から見れば、皮の付いた1個のままに見えるけれど、裏から見れば、白い断面だけしかない。まだまだ余裕のある振りはできなくなった。今日から確実に、果肉を晒すことになる。

今年前期の韓国語教室が今晩終了した。後期は10月からのはず。それまで3ヶ月間が問題。私のメモリーは元々揮発性のため、電源を落とすとすぐに空っぽになる危険がある。

それにしても、時の経過が早すぎる。年々、一年が短くなる。リンゴを食ったくせに、それを忘れたのかと自問する、反省する、そして落ち込む。

リンゴに結びつけるのも毎度だが、イ・ソンヒの作詞・作曲による、13集所収の「リンゴの木の下で(사과나무 아래서)」(2005年、編曲チェ・テワン)を聴いてみよう。
アルバムのタイトルが「四春期」、彼女が四十代になった意味も込めてのこと。リンゴの木の下の初恋とはちょっと違う味わいがある。そして、リンゴの木の下にはさまざまな記憶が残っているようだ。

(本ブログ関連:”リンゴの木の下で”)


(Youtubeに登録のwallace6813に感謝)

2017年7月2日日曜日

イディッシュ語の文字

先日(6/30)の「”YiddishPOP”と 夏休み『イデッシュ語入門講座』」の続きです。

A. イディッシュ語の「文字」を覚えましょう
YIVO研究所」の「イディッシュ アレフ-ベイズ 」と、「yiddish book center」の「イディッシュ語のアルファベットを学ぼう」が提供する、イディッシュ語使用の文字(アルファベット)、すなわち「ヘブライ文字」について見ましょう。

① 文字(アルファベット)の種類と発音(英単語の発音で対応)、対応するローマ字
・文字の「名前」も大事ですが、「発音」と「対応するローマ字」を覚えましょう。
   https://www.yivo.org/yiddish-alphabet

② 文字:「活字体」 >「筆記体」
・印刷物は「活字体」で表示されますが、講義などの板書では「筆記体」が使われます。
・「活字体」と「筆記体」を覚えるのは大変ですが、次のプリントを使って書写練習してみましょう。
   http://www.yiddishbookcenter.org/sites/default/files/downloads/cursive-alphabet-worksheet_0.pdf

以上の情報(①、②)ページを印刷して、書体の練習をしてみましょう。そして、次の夏休み「イデッシュ語入門講座」に参加して、イディッシュの言葉(単語)を書いてみる体験をしてみましょう。


B. 夏休み「イデッシュ語入門講座」
3日間で学ぶ、イデッシュ語入門講座です。(イデッシュ語には昔話、文学の長い伝統があり、ノーベル文学賞作家も輩出しています)
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・日時:8月29日(火)~31日(木)、10時00分~13時20分(休憩20分含む)
・場所:東京外国語大学 本郷サテライト
・講座内容や申込みについては、次の「案内」をご覧ください。
    ⇒ 夏期間「イディッシュ語」
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ここで一息、美しいイディッシュの旋律を聴いてみましょう。

昨年の夏休みの「イディッシュ語」入門講座で、先生が教えてくださった歌「Oyfn Pripetshik (On The Cooking Stove) 」です。(Google翻訳ツールを使いながら、Wikipediaの解説を参照してみましょう ⇒ 英語版イディッシュ語版 。 旧ロシア時代のユダヤ人の日常を描いたもので、19世紀末に広まった曲だそうです)
イディッシュの寺子屋といったらいいのでしょうか、暖かいストーブの傍らで、子どもたちに彼らの文字(ヘブライ文字)を学ぶ意味を、優しく、そしてしっかりと教えている光景が浮かんできます。


(Youtubeに登録のThe Soul of Jewish Musicに感謝)

2017年7月1日土曜日

「賽の河原地蔵和讃」

スーパーの商品棚は、幼い子どもにとって、高く平行に並ぶ、視線をさえぎる迷路の壁かもしれない。だから、こんな光景を目にする。親から離れたのはいいが、急に心配になって、「お母さん、どこ?」と呼びかける。すると、棚の向こうから、母親が「は~い」と応える。これがなんとも微笑ましい。子どもの心の中で、母親との距離はどうなっているのか想像し、きっと一時も離れられない距離なんだろうと合点する。

子どもが親の手をほどいて離れるのはいつ頃か、親の手前を走っては振り返り確認するのはいつまでか考えるだけでも楽しい。わが子の経験で、それがいつだったか、すっかり忘れているからこそ、懐かしく気になる。

ところで、我が子に対する親の慈しみについて何度か触れたことに、40万年前から2万年前まで存在したネアンデルタール人が幼くして亡くした子を「埋葬」したと思われる跡がある。その証拠に、何かにくるまれたらしい子の周りから花粉が発見されている。宗教以前の、共感できる素朴な感情の発露だ。美しい花に囲んで送り出したいという想いの痕跡だろう。子を亡くした親の悲しみはいかばかり、忘れないために墓はそのように作られたに違いない。

幼くして死んだ子どもたちが、「一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため・・・」と石積みをうたう「地蔵和讃」がある。賽の河原で石を積みあげては、鬼にそれを崩されて、また繰り返す。この「和讃」は、幼子があの世との境で、哀れに苦しんでいるのではないかと嘆く親の悲しみを癒し、救いを与えるもののようだ。不思議なことに、仏教界で正式なものでなく、むしろ民間信仰に近い要素を持つという。

「地蔵和讃」はバリエーションが多様で、ここでは「国立国会図書館」収蔵のデジタル古書「西院河原地蔵和讃」(1884年《明17年9月》、出版社:別宮又四郎(出版地:石川県小松町))で見ることにする。 庶民が手にした15cmの小さな和装古書だ。


「サイノカワラヂゾウワサン」(「賽の河原の地蔵和讃」)
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コレハコノヨノコトナラズ。シデノヤマジノスソノナル、サイノカワラノモノガタリ。
キクニツケテモアワレナリ。二ツヤ三ツヤ四ツ五ツ。十ニモタラヌミドリ子ガ、サイノカワラニアツマリテチヽコヒシハヽコヒシ。コヒシコヒシトナクコエハコノヨノコエトハコトカワリ、カナシサホネミヲトオスナリカミノミドリコノシヨサトシテ、カハラノイシヲトリアツメ、コレニテエカフノトウヲクム。一ジウクンデハチヽノタメ、ニジュウクンデハハヽノタメ、三ジュウクンデハ フルサトノ、・・・
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昔、貧しい時代の庶民が理解できたカタカナ文字による「賽の河原の地蔵和讃」は、ご詠歌のように詠まれたのだろう。現代人には読み続けるのが辛い。そこで、仏教雑誌「大法輪」(2016年7月号)掲載の「特集 仏教と世界の《地獄事典》」の中から、「『賽の河原地蔵和讃』現代語訳と解説」(花岡博芳 熊谷市・松岩寺住職)に紹介された漢字混じり文を少々長いが転載させていただく。
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これはこの世のことならず
死出(しで)の山路の裾野なる
さいの河原の物語
聞くにつけても哀れなり
二つや三つや四つ五つ
十にも足らぬおさなごが
父恋し母恋し
恋し恋しと泣く声は
この世の声とは事変わり
悲しさ骨身を通すなり

かのみどりごの所作として
河原の石をとり集め
これにて回向(えこう)の塔を組む
一重(いちじゅう)組んでは父のため
二重組んでは母のため
三重組んではふるさとの
兄弟我身と回向して
昼は独りで遊べども
日も入り相いのその頃は
地獄の鬼が現れて
やれ汝らは何をする

娑婆(しゃば)に残りし父母(ちちはは)は
追善供養の勤めなく
(ただ明け暮れの嘆きには)
(酷(こく)や可哀(かあい)や不憫(ふびん)やと)
親の嘆きは汝らの
苦患(くげん)を受くる種となる
我を恨むる事なかれと
くろがねの棒をのべ
積みたる塔を押し崩す

その時能化(のうけ)の地蔵尊
ゆるぎ出させたまいつつ
汝ら命短くて
冥土(めいど)の旅に来るなり
娑婆と冥土はほど遠し
我を冥土の父母と
思うて明け暮れ頼めよと
幼き者を御衣(おころも)の
もすその内にかき入れて
哀れみたまうぞ有難き
いまだ歩まぬみどりごを
錫杖(しゃくじょう)の柄(え)に取り付かせ
忍辱(にんにく)慈悲の御肌(みはだ)へに
いだきかかえなでさすり
哀れみたまうぞ有難き
南無延命地蔵大菩薩
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解説によると、お地蔵様は、「『あの世』の入り口で、行き先をしめす神」である「道祖神」の化身でもあり、特別の意味を持つ。「賽の河原の地蔵和讃」は、今も心奥深く流れるものを浮きあがらせ、それを遡上する誘惑にかられる。私たちの心情は、その水脈を通じて古としっかりと結びついている。

辻角に見るお地蔵様は、呼べば応えてくれる存在だ。幼子がふと気付いて母親を確認するように、宗教的な環境と離れて、日常、暖かく見守ってくれる存在だ。日本人の琴線でもある。